人間学の現在(1回~10回)

1回


本稿では、人間学の初学者の方のために、この学問の入り口の部分を簡単に語ってみたいと思います。

一口に人間学といっても、現在ではさまざまな「人間学」があり、「人間学」の前に何かの限定詞を付さないとその概念が明瞭にならないという事情があります。

日本人間学会が探究している人間学は、哲学的人間学と呼ばれているもので、おおざっぱな把握の仕方としては、人文科学の一分野と考えてよいでしょう。

この学問領域の源流となっているものは、マックス・シェーラーが提唱した「哲学的人間学」です。ただし、ここでそのあたりの話をすると初学者の方には難解なものになってしまうので、とりあえず、20世紀の初頭にシェーラーという哲学者が活躍していたという事実だけをおさえておいてください。

シェーラーの活躍が20世紀の初頭ですから、哲学的人間学の歴史は100年ほどあることになります。西洋の哲学史のなかに人間学の系譜が明瞭に存在するわけではありませんが、シェーラーの著作は彼の死後、広範囲にわたって影響を及ぼすことになります。たとえば、『夜と霧』の著作で知られるヴィクトル=フランクルもそのうちのひとりです。

フランクルはナチス・ドイツの政権下で行われたホロコーストも体験しており、彼自身は運よく生き延びることができましたが、家族はその犠牲になっています。そのため、フランクルは人類歴史のなかでも特別に過酷な部分を通過させられた人物といってよいでしょう。

日本人間学会にとって、フランクルの存在は重要です。当会の創設者である高島博先生がフランクルと親交があり、フランクルの提唱したロゴ・セラピーを深く学んでいらっしゃるからです。

先生は早い時期にロゴ・セラピーを日本に紹介し、その分野の第一人者ともいえるお方ですが、ご自身は「実存心身医学」という独自の思想を発表されています。ちなみに、高島先生のご職業は医師であり、その方面でも大変ご活躍されました。

高島先生が日本人間学会を創設されたのは、「実存心身医学」は人間に対するトータルな理解を基礎として築かれるべきものだという信念があったためです。これはまことに先見の明と言うべきで、西洋の医学がともすれば物質中心主義的な方向に傾きがちなのに対し、先生は人間に対する全体的なアプローチの必要性を感じていらっしゃったわけです。

当学会の発足したのが1980年代の半ばですから、日本人間学会にもすでに35年の歴史があります。わたし自身は、縁あって10年ほど前からこの学会に関わらせていただき、今日に至っています。現在のわたしの関心分野は、文学と哲学、それから宗教です。そのため、人文科学のフィールドのなかで人間学の基礎的な内容を語ってみたいと思います。

 もとより肩の凝らない随筆風の記事にするつもりなので、「人間学なんて難しいのでは」と思っていらっしゃる方も、お気軽にアクセスしていただければ幸いです。

2回


では、人間学の入門講座に入ります。

人間学についてひととおりのことを学ぶためには、やはり初心者向けのテキストを読むことが最適でしょう。

どの分野の学問にも、たいていは定番の入門書がありますが、人間学の場合はどうでしょうか。

この件に関してわたしがみなさんに紹介したいのは、菅野盾樹氏(大阪大学名誉教授)の書かれた、『人間学とは何か』(産業図書)という書物です。

この著作は人間学の問題について正面から取り組んだもので、この書物が読破できれば人間学の基本がすべておさえられると考えていいでしょう。

ただし、わたしが思うに、この書物の内容はかなり高度なものです。

そのため、すいすい読んでさくっとわかる、ということにはならないでしょう(学術書としての水準を保持しながら書かれた入門書なので、そんなに簡単なものではありません)。

そこで、この書物のなかで論議されていることを紹介しながら、わたし自身の見解をそれに加えて語ることで、当面、「人間学のわかりやすい話」をすることができたらと考えています(もちろん、この書物を購入して読んでみるのもお勧めです。機会があったらぜひそうしてください)。

ではさっそく、本題に入りましょう。

マックス・シェーラーの類型学


人間学の論議のなかでよく話題になるのは、人間の類型という問題です。

これは、マックス・シェーラーが提出した問題なのですが、彼によると、人間には五つのタイプがあるというのです。

ここではその内訳の説明はしませんが、少し批判的に言うなら、このような問題提起によって、人間学は当初から複雑な問題を抱え込んでしまいました。

たしかに人間にはいろんなタイプがありますが、それを五つの類型に分けるというのはどうなのでしょうか。

もちろん、20世紀の初頭においてはこのような問題提起も意味のあるものでした。何よりも、形而上学が主流だった西洋の哲学の伝統のなかに「人間とは何か」という新しい問題意識を持ち込んだのは、彼の大きな功績ですから。

人間をいくつかの類型に分けて考えることで新たに見えてくる部分もありましたが、見失ってしまうものもありました。

それで、ここではそのあたりの問題について掘り下げてみたいと思います。

まず、人間をいくつかの類型に分類する学説の今日的な意義について。

ホモ・サピエンスという言葉は、おそらくみなさんもご存知でしょう。

人間の人間たるゆえんはその理性にある、という考え方です。

これは実は、シェーラーが人間を五つの類型に分類したときの最初のタイプにあたるものです。

人類は一般に猿から進化した動物であると考えられており、二足歩行と言語の使用が人間を人間たらしめているといわれます。

 ただし、言語を操るためには人間の脳のなかに理性がなければなりません。猿は言語を操ることができませんから、理性というほどの理性(抽象思考ができるレベルの理性)はないことになります。そのため、厳密に言うと、人間の脳は猿の脳が「進化したもの」ではないのですが、ここではこのあたりの問題は不問に付すことにしましょう。

さて、人間には理性があるので言語を生み出すことができました。ですから、人間は理性的な存在であり、ホモ・サピエンスであるというわけです。

言うまでもなく、人類の存続と繁栄にとって「理性」は重要です。実際、西洋の文化的な伝統のなかには常に理性中心主義というものがありました。とりわけ、近代において哲学が神学から分離してからは、西洋の哲学はひたすら人間の理性を信頼してきたと言ってもいいでしょう。イマヌエル・カントの「純粋理性批判」などは、人間の理性の中身を探究した古典的業績であるといえます。

 その点において、シェーラーの類型学は人間についての探求をはじめるにあたっての格好の契機となりました。

これが、シェーラーの仕事の今日的な意義の一つだといえるでしょう。

実存主義と構造主義


ところが、人類は20世紀に二つの大きな戦争を経験しています。この歴史的な事実が暗に語っているのは、人間は理性的な存在であるとともに非理性的な存在でもあるということです。アルベール・カミュは、歴史の重大な局面において非理性的な決断をする人類を「不条理」という概念で考察しましたが、カミュによれば、人間は理性的な存在であるとともに不条理の存在でもあるのです。

西洋の哲学は、19世紀に入ってから「実存」の概念に目覚めます。ひとはそれぞれ独自の存在ですから、人間に関する抽象的な思考には限界があるというわけです。ちなみに、実存主義の先駆者としてはキルケゴールとニーチェが有名ですが、この二人の人物の活動は生前はあまり注目されませんでした。

われわれ人間はそれぞれ、とりかえのきかない個人として生きています。人間のこのような存在のあり方を主題化した実存主義は、サルトルに至って簡潔な定義を獲得します。

「実存は本質に先立つ」という定義ですね。人間学は人間の本質について模索してきましたが、サルトルによれば、本質の前に実存がある、というわけです。哲学的人間学は実存主義と遭遇することで、その根底に揺さぶりをかけられ、またそれによって大きく飛躍することができたといえます。

サルトルの死去とともに実存主義は退潮しますが、20世紀の後半にあらわれた構造主義は、実存主義の流行を凌駕するものとなりました。

こちらは一つの思想というよりも、広い分野に応用することのできる方法論です。ソシュールの構造言語学が発端となって多くの人に知られるようになりましたが、人間学の研究者たちもこの思想と無縁であったはずはありません。さすがに「構造人間学」といったものはあらわれませんでしたが、西洋哲学が暗に前提としていた人間中心主義が批判されることで、人間学の根底が再び揺さぶられ、人間に対する概念を更新させられることになったわけです。

こうして、実存主義と構造主義を通過したあと、人間学は独自の領域を形成することになります。

当学会が研究しているのもそのような「現代の人間学」ですが(これに対し20世紀までの人間学は古典的人間学と考えてよいかもしれません)、「現代の人間学」を把握するための代表的なテキストとして、前述の『人間学とは何か』があるといっていいでしょう。
では、菅野氏は、シェーラーの提起した「人間の類型」についてどのような見解をもっているのでしょうか。

次回の講座では、このあたりのことについて話してみましょう。

3回


今回は、マックス・シェーラーによって主題化された「人間観の五つの類型」と、その統合型として現れた「ホモ・ロクエンスの人間観」、それから、その発展形として提起された「ホモ・シグニフィカンスの人間観」について話してみたいと思います。

人間の五類型

シェーラーは、西洋の思想史のなかにはおおむね五つの人間観があることを指摘しました。

有神論的人間、ホモ・サピエンスとしての人間、ホモ・ファベルとしての人間、ディオニュソス的人間、超人としての人間

このような類型がどのようにして導き出されたのかというと、それは彼の文献渉猟です。西洋の思想史を調査すると、人間が世界を把握する仕方には五つの類型が認められるというのです。

シェーラーの類型学は世に名高いものであり、今でも少なくない影響を思想界に与えています。

ところが、かりに人間をこのような五つのタイプに分類したとしても、それで人間が「わかった」ことにはなりません。

五つでなければならない理由はないし(それはシェーラー自身も認めています)、一人の人間のなかには多様な要素が混在しており、特定のタイプに分類できない人もたくさんいるからです。

たとえば、「あなたはこの五つのうちのどのタイプ?」と聞かれたら、あなたはどう答えますか。「わたしはこのタイプです」と即答できる人もいるかもしれませんが、そうでない人も多いことでしょう。

わたし自身も、正直、「自分をどれか一つのカテゴリーに分類されても困るな」という気がします。

案の定、この説に対してはいろんな批判が出されました。

ただ、紙面の都合上、批判の紹介などはここでは割愛し、それぞれの類型について簡単に説明しておきましょう。

まず、有神論的人間。

これは要するに宗教的人間のことであり、シェーラーの頭のなかにあったのは、おもにキリスト教の信徒の人たちです。キリスト教は西洋世界において非常に強い影響力を持っているので、類型の筆頭に挙げているのでしょう。

次に、ホモ・サピエンスとしての人間。

これは簡単に言うと、古代のギリシア人に象徴される人間の類型です。

古代のギリシアにおいて、人類はすでに哲学という知の営為をはじめていますが、その伝統は現代まで脈々と続いています。近代哲学の父と言われるデカルトも、「良識は人間に普遍的に与えられたもの」として(この場合の良識は理性とほぼ同義と考えられます)、人間の中心軸に理性があることを強調しています。人類をホモ・サピエンス(知恵ある存在)と捉える見方も、キリスト教とならんで西洋思想の大きな流れのひとつとなっています。

三番目に、ホモ・ファベルとしての人間。

ホモ・ファベルとは、簡単に言うと、モノを作る存在ということです。

動物はモノを作りませんが、人間はモノを作ってそれを生活に役立てます。家であれ車であれ何であれ、モノの存在を抜きにしてわたしたちは人間の生活を考えることができません。そこで、「人間はモノを作って生きる存在である」という見方が出てくるわけです。

ただし、シェーラーは共産主義者たちの存在をその哲学のなかに取り込んでいません。当時はまだソビエト連邦ができたばかりの状態で、マルクスの思想が典型的なホモ・ファベルの人間観であることに思い至らなかったのかもしれません。

マルクスはその主著『資本論』のなかで、労働価値説なるものを提示しています。わたしの思うところ、これこそまさに「ホモ・ファベル」の典型です。マルクスが想定していた労働とは商品の生産であり、人間の価値をモノづくりの経済活動に置いていたからです。たとえば、東洋の大国である中国は共産主義の国ですから、ホモ・ファベルの思想は現代においても大きな力を持っているといえます。

四番目に、ディオニュソス的人間。

これは簡単に言うと、ホモ・サピエンスの対極にある人間の類型です。

ディオニュソスとは、ギリシア神話に登場する酒の神です。たしかに人間は理性的な存在ですが、理性では統御できない衝動心を持っていることも事実です。酒を飲めば理性が麻痺し、普段とは別の人格が現れることもあります。

シェーラーはこの類型に当てはまる人間の例として、ロマン主義者たちをあげています。また、ショーペンハウアーやある時期のニーチェなどもこのカテゴリーに属します(ただし、ニーチェについては五番目の類型の方により重点があります)。

人間の身体が自然の状態として持っている欲求には、一般に三つのものがあるとされています。食欲と、性欲と、睡眠欲です。これらは人間の生存の維持のために欠かせないものですが、いつでも理性で統御できるものではありません。人は飢えれば破壊活動をしてでも食料を確保しようとするし(江戸時代の百姓一揆など)、どんなに文明が進んでも性犯罪を根絶やしにすることはできません。

そんなふうに考えてみると、理性の働きを妨害するものは酒だけではないことがわかります。

とするなら、人間はだれしも、この類型の要素を多かれ少なかれ持っていることになります。一部の人間にだけ当てはまる類型というわけではないのです。

最後に、超人としての人間。

これは、最初のカテゴリーである宗教的人間の対極にある類型と考えられます。

超人という概念を強く打ち出した人物としては、ニーチェが有名ですね。ここでは、便宜上、ニーチェに論点を絞って「超人」について解説しましょう。

簡単に言うと、「超人」はニーチェが理想とした人間像です。

この概念が生まれた背景には、ヨーロッパ世界を長らく支配していたキリスト教の存在があります。

キリスト教は、イエス・キリストを神ご自身とする信仰ですから、人間はどんなに頑張っても神の子にはなれません。いわんや、神そのものになどなれるはずがありません。ところが、人間の究極的な欲望は自分自身が神になることだとニーチェは言うのです。キリスト教の信徒でいるかぎり、人は神の養子以上の身分にはなれませんから、人生の幸福は永遠につかめないことになります。

そこでニーチェは、超人という概念を立てたわけです。彼は人間の身分を低いところに閉じ込めるキリスト教の道徳を「奴隷道徳」と見做し、人間の本性を抑圧するものとして批判しました。

宗教的世界観に対するアンチテーゼとして、ニーチェの思想は今でも影響力を持っているといえます。

以上が五つの類型に対する簡単な解説ですが、先にも述べたように、これらの類型を詳しく調べてみても、なお「人間とは何か」という問題は残ります。

そればかりか、いっそう深い疑問として「人間とは何ぞや」という問題が立ち上がってくることになります。

そこで、思想家たちは、この五つの類型を統合し得る新たな視座がないものかどうか、探求したわけです。

その結果生まれてきたのが、ホモ・ロクエンスという人間観でした。

ホモ・ロクエンスの人間観


ホモ・ロクエンスとは、簡単に言うと、言葉を操る存在ということです。

世界史のテキストにはおおむね、入口の部分に人類の誕生というテーマがありますが、そこには「言語の使用」と「二足歩行」が人類の特徴として認められるとあります。これはたしかにそのとおりで、常時二足歩行をしている動物は人間以外にいないし、また、体系的な音声言語と文字言語を持っている動物は人間以外にいないでしょう。

そこで、「言語の使用」は人間をほかの動物と区別する公理としてふさわしいものとされ、そこからホモ・ロクエンスという人間観が生まれたわけです。

しかしながら、このホモ・ロクエンスの人間観に対してもやはり批判は現れました。

人間が人間として生きるために言語が必要であることは言うまでもありませんが、だからといって、すべての人間が言語を使えるわけではありません(たとえば幼児など)。また、人間は、身振りや表情などでも自分の意思や感情を人に伝えることができます。
そこで、ホモ・ロクエンスの人間観は「狭すぎる」(普遍性に到達していない)ということになり、人間を人間たらしめている最も基本的な特徴とは何なのか、という問題がさらに探求されることになりました。

ホモ・ロクエンスの人間観が疑問視されるなか、この問題に新しい視座を与えてくれたのが、エルンスト・カッシーラー(1874年~1945年)です。

カッシーラーはアニマル・シンボリクム(シンボルを操る動物)という概念を提起しましたが、「言語」よりも広い領域をカバーできる「シンボル」を軸にしたことで、人間に対する考察はより正確なものとなりました(もっとも彼の仕事は「人間学」の構築を意図したものではありません)。

彼の貢献は、簡単に言うと、音楽や美術などの非言語的な表現や舞踊などの身体的表現も、人間独自の行為として考慮に入れたところにあります。たしかに、人間の表現行為は言語に限ったものではありませんね。

ところが、アニマル・シンボリクムに対しても、その後、「これでもまだ狭すぎる」という批判が現れることになりました。

カッシーラーが活躍した時代は20世紀の前半ですから、われわれの尺度でいうと「戦前の人」です。

戦後、すなわち20世紀の後半において科学技術は長足の進歩をし、それぞれの学問分野もめざましい発展を遂げています。

そんななかであらためてアニマル・シンボリクムの学説を検証したとき、人間をとらえるためのさらに新しい概念が必要になったのです。

では、その新しい人間観とはどのようなものでしょうか。

それは、「ホモ・シグニフィカンスの人間観」というものです。

「シグニフィカンス」は「シンボル」よりも広い領域をカバーできる概念ですが、射程距離が長いだけに難解なものになっており、説明をするのに多くの紙面を必要とします。

また、ある意味でこれは従来の人間学を革新する概念であるともいえるので、本講座のメインテーマの一つともなっています。

そのため、「ホモ・シグニフィカンスの人間観」については、この講座の後半の部分で何回かに分けて解説することにしましょう。

次回は少し話題を変えて、人間学の誕生というテーマで話をしてみたいと思います。

4回


前回の講座では、哲学的人間学の探求が「ホモ・サピエンスの人間観」に代表される五つの類型から「ホモ・シグニフィカンスの人間観」に至るまでの経緯を解説しましたが、このあたりでひとまずスタートラインに戻り、今回は、人間学の誕生というテーマで話をしてみたいと思います。

人類の哲学史において人間学という分野が一般に認められるようになったのは、20世紀に入ってからです。では、それまでの哲学には人間存在の問題を主題化するような論究がなかったのかというと、そうではありません。ただ、人間が人間について哲学的に考察するには、自然科学や経験科学(心理学など)の発達が不可欠でした。人間にとって人間の研究は、最も難しいテーマに属するものであるからです。そのため、人間学が哲学の一領域として成立するためには、結果的に見ると、およそ二千数百年もの思想の歴史が必要だったわけです。

ただし、古代ギリシアの哲学のなかにも人間学的な哲学の芽生えはありました。その代表的な人物は誰かというと、ソクラテスです。ソクラテスは哲学の分野で顕著な業績を遺しているひとですから、ここで少し掘り下げておきましょう。

人間学の先駆者ソクラテス


人類の倫理思想史については、高校の社会科で学ぶ機会があります(「倫理」という科目です)。ソクラテスの哲学についてもそこで紹介されているので、「無知の知」や「汝自身を知れ」などの名言はよく知られていますね。

では、人間学の見地からソクラテスの業績について整理してみましょう。

ソクラテスの哲学史上の位置について考えるためには、ソクラテス以前の哲学について見ておく必要があります。

「倫理」の教科書の語るところによれば、ソクラテスの登場以前には、「自然哲学の成立」と「ソフィストの登場」がありました。自然哲学とは、自然界の根源にあるもの(アルケー)について考える学問のことで、「万物の根源は水である」と説いたタレス(BC624?〜BC546?)が自然哲学の祖とされています。今日のわれわれから見るならば、自然科学の探究を抜きにして万物の根源に迫ることは不可能ですが、この時代にすでにアトム(原子)という考え方があったことは特筆に値します。

ギリシアでは、紀元前8世紀ごろから多数のポリス(都市国家)が栄えるようになりました。人々はそこにおいて、古代では極めて稀な民主主義的な社会体制を実現していました。ところが自然哲学の隆盛のあと、哲学の主流は功利的なものへとシフトしてしまいます。これがいわゆる、ソフィストの登場です。

アテネに代表されるポリスでは民主政治が行われていましたから、ひとが自分の意見を通すためには弁舌力が必要でした。いまでも「迫力のある声が出せれば政治家になれる」というジョークがあるように、当時の人々も、自分の立場を有利なものにするために弁論術を必要としていたのです。政治家はしばしば失言をすることで政治生命を失いますが、この例からも弁舌力がいかに重要なものであるかがわかるでしょう。

自分の意見をわかりやすく伝えるための努力は、話し言葉であれ書き言葉であれ必要なものですが、ソフィストたちが報酬をもらって人々に教えていた弁論術は、やがて論争に勝つための詭弁術に堕していきます。ポリスのあちこちに詭弁を弄する弁舌家が現れた結果、古代ギリシアの民主政治は混乱し、人々の心は荒廃しました。当然、真理の探求を目的とするギリシア哲学の流れも衰退することになります。

そんななかで登場したのが、ソクラテスという人物でした。ソクラテスは先人たちの自然哲学に満足せず、また、個人主義に陥っていた当時のポリス社会にも失望していました。そんな若きソクラテスに、ある日不思議な出来事が起こります。彼の友人のひとりがアポロン神殿で、「ソクラテス以上に知恵のあるものはいない」という信託を受けたのです。

ソクラテスは自分の無知を自覚していましたから、「そんなはずはないだろう」と思いました。そこで、信託の真意を探るため、自分より知恵のある人を見つけ出し、自分についての信託が正しくないことを証明しようとしました。

ソクラテスの哲学は、そのため、賢者(と世間から思われている人)との対話から出発しています。ここで彼の思索の遍歴を語ることは控えますが、ソクラテスの思索のテーマは「いかに生きるか」ということであり、それゆえにこの人物は、倫理学の祖と言われています。

哲学的人間学においては、ソクラテスによる新しい哲学の出発を「ソクラテス的転回」と呼んでいます。ソクラテス以前にも、「技術知」はあったし「理論知」もありました。技術知とは、たとえば、古代のエジプト人がもっていた高度な測量術などです。また理論知とは、たとえば、哲学の祖と称されるタレスが、ピラミッドの高さの測定や紀元前580年の皆既日食の予言などを行っていたことを指します。

技術知と理論知は、今でも文明社会を支える最も基本的な「知」となっています。20世紀に入ってから科学技術の分野が急速に発展しているのは誰もが知るところでしょう。わたしたちが日常使っているスマートフォンなどにも、技術知の結晶とも言える先端の技術が使われていますね。

ソクラテスの人間観


では、今日の人間学から見た場合、ソクラテスの哲学はどのような点において評価されるべきものなのでしょうか。この点について簡単に整理しておきましょう。

ソクラテスの哲学の中心テーマは、「人間」であり「人生」です。人間が人間として生まれてきた以上、このテーマについて考えることは哲学者の宿命であるともいえます。
では、ソクラテスは人間をどのような存在として捉えたのでしょうか。

彼は人間という存在を、「肉体をまとった魂」と考えていたようです。

「魂」を「心」と考えれば、この人間観はわたしたちの常識と一致します。ただし、ソクラテスの用いる「魂」ということばには独特の意味が含まれているので、そのあたりのことを少し見ていきましょう。

ソクラテスは、人間の魂が自己意識として存在していることに気づいていました。人間の人生とはつねに「私の人生」であり、人の数だけ「私」がいるということです。動物にも「意識」はありますが、「自己意識」があるかというと、それははなはだ疑問でしょう。たとえば、ペットの犬が犬としての自己を自覚して生活しているようには見えません。彼はわたしたちにとっては犬ですが、当人(当犬)は自分のことを犬だとは考えていないでしょう。つまり、一緒に暮らしている犬にしたところで、それはあくまでも「私にとっての犬」なのです。人間が犬を認識するにも「私」という自己意識がその前提として存在しているわけですね。

人間のそんな存在のあり方を当時すでに見抜いていたソクラテスは、「自己意識」が「自由意志」とほぼ同義であることも悟っていたようです。

つまり、人間には自分の生き方を自分で決定することのできる自由意志が与えられている、ということです。これは、動物の行動と比較した場合の人間の顕著な特徴でしょう。

もちろん、人間にも本能的な行動や習慣的な行動のベースはありますが、行動のすべてがそれに拘束されているわけではありません。これは、空間図形の比喩で考えてみると、人間は平面の上を転がる球のような存在です。球は平面と1点で接触していますから、前後左右、どちらにもシームレスに動くことができます。動物の場合は平面の上を転がるタイヤのようなもので、前に進むか、止まるか、あるいは後ろに下がるか、くらいの動きしかできません。

とするなら、人間は自分の生き方を自分で選ばなければならないことになります。そこから、「いかに生きるか」という問題が必然的に生まれてくるわけです。

そこで、ソクラテスは、「人間とは何か」という問題とともに「いかに生きるか」という問題が哲学の主要なテーマであることを悟りました。彼もまた、人間の際立った特徴がその「理性」にあることを確信する点においてギリシア哲学の主流のなかにいる人物でしたが、人間の理性はそもそも、自由意志がなければ発達することができません。なぜなら、理性とは物事について自由に考えることのできる力であるからです。

「ソクラテスの弁明」は、ソクラテスの思想を学ぶ際の格好の入門書となっています。彼自身は著作を遺しませんでしたが、弟子のプラトンがソクラテスの言動を書き残してくれたおかげで、今日のわたしたちはソクラテスによる「人間学の誕生」という出来事を詳しく知ることができるわけです。

ソクラテスは、「いかに生きるか」という問題を探求するために書斎にこもったりすることはありませんでした。そうではなく、彼は多くの人と対話をすることで人間についての洞察を深めていったのです。これは、近代哲学の父と言われるデカルトの歩みと似ています。デカルトもまた、当時大学で講じられていたスコラ哲学に満足することができず、ひとりで街に出て思索の旅をはじめたのです。

「ソクラテスの弁明」についての解説は、ここでは控えましょう。文庫本などもあり簡単に手に入るので、興味のある方はお読みになってみてください。哲学の源流に触れるという点においても、この書物の存在は重要です。

ソクラテスの哲学は当時の人々の魂を目覚めさせたため、ソフィストたちの妬みをかいました。これは、斬新な教えを説いて律法学者たちから激しく妬まれたイエス・キリストの場合と似ています。ソクラテスは亡命するチャンスがあったにもかかわらず、不当な裁判の判決を受け入れ、自らの意思で毒杯をあおぎます。イエスの十字架刑を先取りしたような出来事のようにも思えます。彼の哲学は、彼の人生そのものだったのでしょう。

そして、このソクラテスの人生において、現代のわたしたちが学んでいる「哲学的人間学」は誕生したのです。

では、今回の話はこのへんで。

5回


前回までの講座で、人間学のルーツの問題から哲学の一領域として成立した「人間学」の問題まで、わたしが理解している内容を簡単に説明してきました。

わたしたちはいま、人間学についておよその輪郭を掴みつつあります。

そのため今回は、少しだけ学術的な世界に足を踏み入れて、「人間学が学問として成立する根拠とはどのようなものか」という問題について考えてみましょう。

人間学という用語は便利なもので、近年は書物のタイトルなどにもよく使われています。わたしたちはみな人間ですから、このテーマについては誰もが当事者であり、発言権を持っているのです。「おれだって人間なんだから意見を言わせろ」といった感じですね。

ですから、「〇〇の人間学」といったタイトルの書物は世の中にたくさんあります。ところが、それらがみな「人間学」についての書物であるかというと、もちろんそうではありません。とするならば、「そもそも人間学とはどんな学問なのか」ということが問題になってくるわけです。「哲学的人間学」と銘打つ以上、そこには学問としてのなんらかの条件があるはずですから。

植物学や動物学においては、研究の範囲は明瞭に規定されます。言うまでもなく、植物学の研究対象は植物であり、動物学の研究対象は動物です。もちろん、ミドリムシなどはどちらにも属するような生物ですが、そうであるならどちらで研究してもいいわけです。そういう意味では、人間学の研究対象もあらかじめ規定されており、それはいうまでもなく人間です。しかしながら、人間について研究するのもまた人間ですから、そこにはどうしても、向かい合った二枚の鏡を覗き込んでいるようなややこしい事態が発生します。

人間学では、人間学の研究につきまとうこのような特性を「反射性」と呼んでいます。研究対象は明らかであっても、自分自身でもあるその対象にどう切りこんでいけばいいのか、という独自の困難がこの学問にはあるわけです。

人間は動物と違って、理性を持ち、言語を持ち、文化を持ち、文明を持ち、そして歴史を持っています。たとえば、猿の社会は百年たってもあまり変わらないでしょうが、人間の社会は百年も経つとずいぶん変わっていきます。その変化のすべてが好ましいものとは言えないものの、たとえば、科学技術の分野などには長足の進歩が認められます。つまり、人間自身が歴史とともに動いているわけですから、未来に対してつねに未知の可能性を秘めている人類をその当事者が捉えるということは、決して簡単なことではないのです。

ありがたいことに、人間学の探求はソクラテスによって適切なスタートを切ることができました。また、20世紀に入ってから、マックス・シェーラーらの努力によって人間存在の解明を主題とする哲学、すなわち人間学がひとつの学問として立ち上がりました。わたしたちはこのような歴史の流れのなかに立ち、あらためて人間とは何かという問いに取り組んでいるわけです。

人間学の成立根拠


では、人間学の成立の根拠とはどのようなものでしょうか。

人間学の周辺には、人間の存在に関わる多くの学問が存在しています。社会科学や人文科学の範疇に属する学問(経済学や心理学など)はすべて人間の存在が前提ですから、それらもまた人間学と無縁のものではありません。もちろん、歴史学や考古学なども然りです。また、自然科学の分野でも、医学のように人間の生理機能を研究する学問もあります。

ここでは、人間学と最も近い関係にある人類学との比較によって人間学の成立の根拠について考えてみましょう。

人間学はこの講座のテーマですからすでにある程度の了解があると思いますが、人類学についてはまだ何の話もしていません。そこで、人類学という学問について簡単に説明しましょう。

人類学について最初に知るべき事柄は、この学問にはいくつかのテリトリーがあるということです。人類について研究する側面はいくつもあるため、この学問もいくつかの領域に分かれています。このあたりの事情については、日本人類学会という研究機関のサイトに簡便な説明が見出されるので、そちらを引用することにしましょう。

人類学は、「生物としてのヒト」を総合的に研究する学問で、ヒトとは何かを科学的に偏りなく理解し、実証的で妥当性のある人間観を確立することを目標としています。言い換えますと、人間自身について科学的な根拠に基づいた認識を得ることが人類学研究の最終的な目的となっています。それには下記の3つの観点が重要となります。

 人類の本質(他の生物種との共通性と異質性、人類の独自性・特質)
 人類の変異(集団や個体ごとの違い・ばらつき、およびその意味)
 人類の由来(起源と進化・変遷)

具体的には、過去および現在の人類の解剖・生理・発育・運動機能・遺伝・行動・生態・文化、地球における人類の出現と変遷に関わる場所・時代・環境など、また、それらに関する人類と近縁な動物との比較などが研究項目として挙げられます。

現在の人類は「発達した文化を持つ生物種」という特徴を有するため、人類の身体形質を主対象として主に自然科学的観点から「ヒト」を探求する自然人類学と、人類の文化・社会を主対象とし主に人文科学的観点から「人間」を探求する文化人類学とに大別されることが多いのですが、人類学は、上記のように広く、考古学、民族学、民俗学、霊長類学、遺伝学。解剖学、生理学、古生物学、第四紀学、年代学などと接し重なりあった包括的な科学です。

上記の説明からもわかるように、人類学は「生物としてのヒト」を科学的に理解しようとする学問であり、哲学とは別のものです。ところが、わたしたちの人間学は人間について哲学的に理解しようとする学問です。ですから、人間学は必然的に哲学的人間学を意味するものとなり、そこに人間学の独自性があるといえます。

たとえば、人間の精神を研究しようというのであれば、それは精神医学になるでしょう。また、人間の心の動きなどを研究しようというのであれば、それは心理学になるでしょう。このように、人間についての科学的なアプローチは人間学以外の学問としてすでに成立していますから、人間学の牙城はどうしても「哲学」ということになるわけです。

以上の説明で、人間学のアイデンティティの問題(ならびにポジショニングの問題)は整理できたのではないかと思います。ただし、人間学が哲学の一領域だとしても、それがただちに形而上学を意味するわけではありません。人間学の研究対象はあくまでも人間ですから、人間学に隣接する諸学問の成果も積極的に取り入れる必要があります(取り入れるというよりもつながり合うと言ったほうがいいかもしれません)。それが哲学である以上、人間についての思弁的な考察ももちろん行われますが、それのみに終始する学問ではないのです。

人間学の意義


次に、人間学の意義という問題について考えてみましょう。

周知のように、わが国では学問の自由が憲法で保障されています。世の中には数多くの学問がありますから、学問の道を志す人は、まずは自分が取り組む学問を選ばなければなりません。そうなると、ひとは必ず探求する価値があると思う学問を選ぶことになるでしょう。

学問自体は価値の問題から独立したものであるとしても(外在的な価値観の支配下にある学問はそもそも学問とは言えないでしょう)、わたしたちの人生は価値の問題を避けて通ることができません。たとえば、日常的な買い物ひとつをとってみても、ひとはつねによりよい商品を購入しようとします。たいていは、類似の商品を比較してよりよいと思えるものを選択しますね。これなどはまさに、人が生きるうえでの価値の問題と言えるでしょう。

もちろん、人間学がほかの学問と比較して価値があるとかないとか、そういった議論はもとより成立しません。これはすべての事象に当てはまることですが、価値というものは当該の事象に不動の客観物として付属するものではないからです。ですから、人間学の意義の問題はあくまでもわたし個人の見解となりますが、この講座は人間学の道案内を趣旨とするものですから、この問題について少し掘り下げて話してみましょう。

わたし自身が人間学に対して関心を持ったのは、それが人間を研究テーマとする哲学であったからです。

哲学というと、何やら難しい響きがありますが、物事について深く考えようとすれば、ひとはみな多少なりとも哲学者になるものです。実際、世の中で活躍している人の多くは自分自身の哲学を持っており、「〇〇の人生哲学」といった書物なども多く見受けられます。

また、人間についての哲学的な疑問に関しては、次のような言葉が広く知られています。

  • われわれはどこから来たのか
  • われわれは何者か
  • われわれはどこへ行くのか


これは、フランスの画家ポール・ゴーギャン(1897〜1898)が19世紀の末に制作した作品のタイトルです(便宜上3行に分けて表記してあります)。

人間学は、このような哲学的な問題について研究しようとする学問です。

先にも触れましたが、こうした問題はすでにソクラテスによって提起されており、長い歴史を通じて人類の思索の基本的なテーマとなってきました。わたしたち人間は「いちばん新しい動物」としてこの地球に現れていますから、どこから来たのかがわからないし、何者であるのかがわからないし、また、どこへ行くのかもわからないわけです。

どこから来たのかという問題に関しては、今から百数十年ほど前にダーウィンが進化論を唱え「サルが進化してヒトになった」と主張しましたが、それでこの問題に解答が出たわけでもありません。

かりに神という存在を想定したとしても、このような問題が簡単にかたづいてしまうとは思えません。

わたしは個人的には、神学は人間学のすぐ隣にあると思っていますが、「神学と人間学」というテーマは前人未到のもので、このテーマを基軸としてひとつのまとまった世界観を構築するには、多大な労苦が必要となることでしょう。

結局のところ、人間学はいまだに多くの課題を抱えている学問なのです。

人間についての根本的なところがまだよくわかっていないわけですから、「謎を秘めている学問」と言ってもいいでしょう。

ただ、謎を秘めているものには魅力があることも事実です。

人間についての哲学的な思索を武器として世界について根本から考えてみること。このような行為のなかにこそ「人間学の意義」があるのではないかとわたしは思います。

秘境をめざして旅を続けることのなかには、「未知との遭遇」が期待できますね。

わたしは現在、多くの謎と遭遇する秘境の旅を続けている最中であり、そのようなチャンスを提供してくれている日本人間学会の会員であることに、少なからぬ生きがいを見出しているのです。

人間学の意義について個人的なことを言うなら、そのようなことになります。

今回は、人間学の成立根拠についての話と、人間学を学ぶ意義についての話でした。 

6回


前回は人間学の意義について話しましたが、これに関連することがらとして、今回は人間学の必要性について話してみたいと思います。

人間学は人間の存在を探求のテーマとする哲学ですが、人類の文明がどんなに進歩しても、哲学の必要性がなくなることはないでしょう。そしてまた、哲学の主体はいうまでもなく人間ですから、人間が人間について考察する必要性がなくなることもないでしょう。

このように、いわゆる三段論法的に考えてみると、人間学の必要性はすぐに理解できますね。

ただし、今回はこうした一般論とは別の話をしてみようと思います。

ジャーナリズムと人間学


好むと好まざるとにかかわらず、わたしたちは現在、高度に情報化した社会のなかで暮らしています。

マスメディアが発達し、多様な言論に触れる機会が昔に比べて格段に多くなりました。
ところが、世の中に流通している情報は、そのすべてが十分に吟味されたものであるとは言えません。また、公正なものであるとも言えません。

近年の先進国が実現したユビキタス社会(情報が遍在する社会)には便利な面もありますが、危うい面、すなわち思わぬ落とし穴もあります。

メディア・リテラシーは、情報化社会に生きるわたしたちにとっていまや必須のスキルとなっていますが、実際にはデジタル技術のほうが先行して発達してしまい、情報の洪水のなかで自分を見失う人(情報難民)を量産しているのが今日の社会の現状といえます。

メディア・リテラシーとは、「民主主義社会におけるメディアの機能を理解するとともに、あらゆる形態のメディア・メッセージへアクセスし、批判的に分析評価し、創造的に自己表現し、それによって市民社会に参加し、異文化を超えて対話し、行動する能力(ウィキペディアより)」を意味する用語です。

しかしながら、このような高度なスキルは一朝一夕に身につくものではありません。

若者たちはおおむね、メディア・リテラシーを十分に身につけないまま社会に旅立つことになりますから、多かれ少なかれ「情報難民」の窮地に陥るリスクを抱えています。
一般のメディアは広告をおもな収入源にしていますから、スポンサーは常日頃、自分たちに都合のいい情報をお金の力で世間にばらまいています。

そのなかには意図的に操作されたものも多く、それらを真に受けてしまうと後々痛い目に遭うことも珍しくありません。

また、SNSのような個人発信の情報のなかには時として、信じてしまうと危険なフェイク・ニュースなども見受けられます。

人間学は、騒がしいジャーナリズムとは一線を画したところで、人間についての根本的な問題について考察する学問です。

世の中に生起している多様な出来事を冷静に吟味する力は、このような知的な訓練において養われるものでしょう。

ジャーナリズムの情報操作に惑わされない確かな目を養うこと。また、コマーシャリズムを背景とする煽情的な言論に対して批評的に接することのできる広い視野を養うこと。そのために、人間についての幅広い見識を平素から身につけておくこと。

これが、人間学を学ぶ今日的な意義ではないかとわたしは思います。

実学としての人間学


今日のように社会が複雑になると、情報も複雑になるし価値観も多極化します。

そんな社会のなかにわたしたちは生きているわけですから、メディア・リテラシーのスキルは重要です。

アメリカと中国が対立しているのも、国是とする思想が異なるからであり、この二つの大国の対立は、思想的に見るならば有神論と無神論の対立と捉えることができます。

共産主義の思想は、人間の類型学の観点から見ると、ホモ・ファベルの思想です。モノを作ることで人は猿から人間に進化した、という世界観ですね。

マルクスの思想はもともとキリスト教のアンチテーゼとして生まれていますから、キリスト教と共産主義の対立は運命的です。

共産主義の勢力のなかから過激派と呼ばれる集団が生まれたのも、一つの主義主張が極端なイデオロギーに発展し、「革命(大善)のためには暴力(小悪)も許される」といったドグマが形成されたからでしょう。

戦後の一時期、過激派の運動に取り込まれていった学生たちも、運動の根拠となっている思想を客観視するだけの視野を持っていたとしたら、殺人やハイジャックなどの犯罪行為にまで手を染めるようなことはなかったはずです。

ひとつのイデオロギーに過ぎないものを絶対的な真理と思い込んでしまうところに、大きな悲劇が生まれるのです。

人間学は、世界観の視野を広げることに役立つ学問です。

そういう意味では、人間学にも実学的な側面があるといえるでしょう。
広い視野と主体的な判断力があるならば、目の前のイデオロギーにのみこまれて人生を空費してしまうリスクも避けられますね。

明治維新の激動期に福沢諭吉が『学問のすゝめ』を出したのも、広い視野を養い、物事に対して主体的な判断のできる人材を育成することが目的でした。

諭吉は慶應義塾という私塾を主宰することでこの目的を実践しましたが、この大学が「実学」を重んじ、実業界に多くの人材を排出しているのもうなずけることがらです。
また、この大学の「独立自尊」という建学の精神は、今の時代にも有意義なものだといえるでしょう。メディア・リテラシーのスキルは、「独立自尊」の精神(これはいわゆる個人主義とは異なります)が根底にあって身につくものだと思うからです。

今回は、人間学を学ぶ必要性についての話でした。

7回


前回は人間学を学ぶ必要性について考えてみましたが、今回は「人間学に公理はあるか」という問題について考えてみましょう。

人間の初期設定


わたしたちは普段、自分が人間であることを意識しているわけではありません。また、人間にはいくつかの「初期設定」があるということにも、とくに意を払って暮らしているわけでもありません。

それらのこと(たとえば自分が日本人であり男性であること)は自分にとって当たり前のことですから、あらためて意識することなどないわけです。

しかし、人間の存在について少し丁寧に考えてみると、人はそれぞれいくつかの初期設定を経たうえで生まれていることがわかります。

私見によれば、それは次のようなものです。

  •  特定の個性が与えられていること
  •  特定の名前が与えられていること
  •  男性、女性のいずれかの性が与えられていること
  •  特定の家庭のなかに生まれていること
  •  特定の国のなかに生まれていること
  •  特定の地域(自然環境)に生まれていること
  •  特定の時代(歴史環境)に生まれていること
  •  誕生と死によって人生が明確に区切られていること


これらの条件は、自分がこの世に生を享けたときにすでに確定しているものであり、自分の力で変更できるものではありません。

しかし、たとえばパスカルが「人間は考える葦である」と言ったように、これらの条件について思索することはできます。どうして(何のために)このような初期設定があるのだろうか、と考えてみることはできるわけです。

この場合、考え方は大きく分けて二つあります。ひとつは、「偶然そうなっている」というものであり、もう一つは、神(もしくは神のごとき超越的な存在)が人間をしてそのような存在にあらしめている、というものです。

ただし、「偶然そうなった」と考えると、その先は思索のしようがありません。人類の誕生に偶然以外の因子が働いていないとするならば、わたしたちは今後も永遠に偶然性のなかをさまよう以外にないからです。

では、人間の初期設定というものは、何がしかの超越的な存在が世界の創造の際に定めたものなのでしょうか。

こちらの考え方は「神の創造論」として古くから存在し、今もなお多くの人々に支持され、信じられています。

神の創造論を最も厳密に考えてきた宗教といえば、やはりキリスト教でしょう。

この宗教には千数百年におよぶ神学の歴史があり、多くの優れた神学者たちが「神の創造」について考察を重ねてきました。

人間というものが結果的な存在である以上、人間学としても「神の創造説」を否定することはできません。ただ、だからといって人間学が神学の枠の中に入らなければならないこともないわけですから(中世のスコラ哲学は哲学の上に神学をおいて世界について考えました)、神の存在を想定しつつも、従来の神学とは別の立場で人間の存在について考える必要があるのではないかと思います。

人間学に公理はあるか


では、人間の初期設定の考察から一歩進めて、人間学の公理の問題について考えてみましょう。

人がそれぞれの人生を出発するに際し、誕生の時点でいくつかの「初期設定」を経ていることについては、今しがた確認しました。

では、そのような人間の存在に「公理」と言うべきものはあるのでしょうか。

人間存在の公理(誰にでも当てはまる普遍的な事実)と言えば、次の三点はすぐに考えられるでしょう。

  •  直立二足歩行
  •  言語の使用
  •  道具の使用


ただし、上記の三点について研究するのはむしろ人類学なので、ここでは人間学の立場から、人間存在の公理について考えてみたいと思います。

私見によれば、わたしたち人間の世界には、いくつかの公理が存在しています。それはたとえば、次のようなものです。

  •  個人として生きる存在であること
  •  社会との関わりのなかで生きる存在であること
  •  二性のうちの一性として生きる存在であること
  •  哺乳類として生きる存在であること
  •  理性を持つ存在であること
  •  喜怒哀楽の感情を持つ存在であること
  •  自由意志を持つ存在であること
  •  言語や記号を操る存在であること
  •  文化・文明を持つ存在であること
  •  闘争の歴史を持つ存在であること
  •  幸福な境遇を希求する存在であること
  •  神についての思考を有する存在であること


これらの項目はみな、わたしたちにとって当たり前のものですから、解説は不要でしょう。

ただ、「哺乳類として生きる存在であること」については、ここで若干掘り下げておく必要があるかもしれません。

特別な哺乳類としての人間


人類が最後の哺乳類(いちばん新しい哺乳類)として地上に出現したのは、生物学的な事実ですね。

人間以外の哺乳類といえば、身近なところでは犬や猫などがいますが、海のなかを泳いでいるクジラやイルカもそうであり、また、近年のコロナ騒動でにわかに注目を浴びることになったコウモリも哺乳類です。

海にも陸にも空にも哺乳類は存在し、その生存の形態も様々ですが、胎生という点では共通しています。

では、わたしたち人間が哺乳類でなければならない理由はあるのでしょうか。それとも、わたしたちは「たまたま」哺乳類として存在しているだけなのでしょうか。

先にも述べたように、人間存在に普遍的にあてはまる公理というものが生物の進化の過程で「たまたま」成立したものであるならば、これ以上何を考えても意味がありません。物事の原因を追求する論議のなかで、「偶然そうなった」という見解が出されれば、話はそこで終わるからです。

人間学は人間についての哲学的な論究ですから、ここではひとまず、「何かしらの意味があって人間は哺乳類として存在している」と仮定することにしましょう。

動物学において、人間は哺乳類のカテゴリーに分類されますが、実はこのカテゴリーのなかには、さらに小さなカテゴリーが存在しています。それは、霊長類というものです。

霊長類というと、サルをイメージする人が多いかと思いますが、すでに絶滅している類人猿などもそうです。わたしたち「現生人類」は、猿人、原人、新人のステップを経てこの地球に出現していることになっていますが、サルとヒトの間に存在するはずの「中間種」は、今では化石としてしか存在していません(たとえば中国の山奥に北京原人の末裔が原人のままひっそりと暮らしていたというニュースがあれば衝撃的ですが、そのようなことは起こらないでしょう)。

猿よりも進化しているはずの類人猿がなぜ絶滅したのかという問題は進化論では説明ができず、新しいパラダイムの進化論の登場が期待されるところですが、この点についてはここでは不問としましょう。

さて、猿と人間の中間的存在が消滅してしまったため、現在の霊長類はサルとヒトということになりますが、ヒトはサルに比べても何かしら特別な存在のような印象を受けます(一口に進化といっても、人間の場合、進化の次元がほかのものとは異なるような印象を受けます)。

では、サルとヒトではどこがどう違うのでしょうか。

ここでも、人類学的な見地からの考察は省略しましょう。

人間学的な見地(というよりもわたし個人の見地)から見た場合、「人間は一人前の存在になるまでに長期にわたる成長期間を必要とする」という際立った特徴があります。
これには人類の歴史の問題も絡んでおり、たとえば大化の改新の頃の日本では、人は六歳になると口分田を与えられ、一人前の大人として扱われていました。とはいえ、人類が今後そのような状態(生まれて数年で大人になる状態)に逆戻りすることは考えられませんから、「十数年におよぶ成長期間」という条件も人間学の公理のひとつに数えてよいと思われます。

ほかの動物たちと比べた場合、わたしたち人間に「特別に長い成長期間」があるというのは、自明の事実ですね。

同じ哺乳類でも犬や猫などは、生まれてからいくらもしないうちに歩けるようになりますが、人間の場合はそうはいきません。生まれたばかりの人間は、歩けないばかりか、生存のすべてを親(または親代わりの人)に依存するしかない存在なのです。

ところが、これまでの人間学では、このような人間に固有の「公理」(人間には長い養育期間が必要だということ)がほとんど考察の対象になってきませんでした。

そのため、本講座では、これまでになかった新しい視点から、「人間」についてあらためて考えてみようと思っています。

とはいえ、その新しい視点というものも、わたしたち人間にとって別段目新しいものではありません。

わたしが現在構想を練っているのは、「家庭という視点から見た新しい人間学の構築」というものであり、ことさらに新奇さを狙ったものではありません。

ただ、これまでの西洋の思想史を振り返ってみると、歴代の思想家が想定していた「人間」は、おおむね個人(しかも成人男性)を標本とした人間のイメージであり、家庭はおろか、人間が「男女」として存在しているという事実もほとんどかえりみられることがありませんでした。

多少余談になりますが、この点についてはわが国にも似たような事例があります。
日本の歴史を調べてみると、女性には長い間、参政権が与えられてこなかったことが分かります。

大正時代には「大正デモクラシー」の風潮が高まり、政府も治安維持法と抱き合わせにしながら普通選挙法を成立させましたが、現在のわたしたちの常識からすると、あれはまったく「普通選挙」といえるものではありませんでした。なぜなら、そこにおいてもやはり女性には選挙権がないからです。

1925年に成立した普通選挙法は、「25歳以上の全ての男子に選挙権を与える」というものであり、当時においてそれは最大限に民主的な法律でした。しかも、女性の存在を度外視したそのような選挙制度を「普通選挙」と呼んで誰もあやしまなかったわけですから、当時の為政者たちの頭のなかには、男尊女卑の価値観が自明のものとしてあったことが分かります。

わが国において完全な普通選挙が実現したのは戦後になってからで、これには当然のことながら、世界に先駆けて民主主義国家を実現していたアメリカの影響が強くありました。

男女平等の理念は今のわたしたちには当たり前のものですが、人類の長い歴史の尺度から見るならば、この理念もつい最近わたしたちの世界観のなかに入り込んできたものなのです。

新しい人間学の構想


家庭の役割を軸に人間存在についての抜本的な考察を行う「新しい人間学」の話は次回からはじまりますが(ただしあと三回はそこに至るまでの予備的な話になります)、わたしたちにとってきわめて身近な「家庭」という言葉も、考えてみると人間に特有な構成の単位であることがわかります。

たとえば、「サルの家族」という言い方はできても、「サルの家庭」という言い方はできませんね。もちろん、何かの物語のなかでこのような言葉が出てくるのであれば、それはサルを擬人化していることになります(たとえばサルの夫婦が会話をするといった擬人化です)。擬人化されたサルは、サルの姿をした人間にほかならないので、やはり「家庭」といえば、わたしたち人間に特有の生活様式と考えられるわけです。

では、「家庭」とはそもそも何なのでしょうか。

これはすぐれて人間学的な問いかけですが、この論題の考察に入る前に、わたしたちは、菅野盾樹氏の『人間学とは何か』に対するひととおりの学びを済ませておく必要があります。

氏の『人間学とは何か』のなかで最も力点が置かれている内容は、「ホモ・シグニフィカンス」という人間観の提示ですが、これは今の時代にふさわしい人間観であるとわたしは思います。

ただし、「ホモ・シグニフィカンス」という用語の意味内容が把握できれば「人間」についての理解が完了するかというと、もちろんそういうものでもありません。

そこで、次回では、『人間学とは何か』の全般的な解説を行い、その次の回では「ホモ・シグニフィカンス」に焦点を絞った解説を行い、最後に全体のまとめとして、菅野盾樹氏の提示した「ミニマム人間学」の功績とそこから新たに生まれる課題について話してみることにしましょう。

そして、そこまでの考察を土台として、「家庭という視点からの新しい人間学」の話をはじめたいと思います。

以上の予定を箇条書きに整理すると、次のようになります。

 8回 『人間学とは何か』について
 9回 「ホモ・シグニフィカンス」について
 10回 「ミニマム人間学」について
 11回 「新しい人間学」の構想について

12回以降は、「新しい人間学」についての具体的な話になります。

日本人間学会がこれまで研究を重ねてきた「新しい人間学」の話がはじまることで、この講座も、そろそろ佳境に入ることになります。

8回


今回は、菅野盾樹氏の『人間学とは何か』に対する解説となります。

菅野氏のこの著作は、わたしの知るかぎり最も優れた人間学の入門書であり、そのためわたしのこの講座も、菅野氏の仕事を主要なベースにしています。

そこで今回は、『人間学とは何か』に対する全体的な解説を試みることにしましょう。

この著作に対する読者のみなさんの正確な理解を期するため、今回は引用の部分が長くなると思いますが、その点はあらかじめご了承ください。

『人間学とは何か』の概要


この書物は、11の章から成り立っています。それぞれの章にはタイトルがあり、また、いくつかの小見出しが設けられています。
各章のタイトルを以下に列挙しておきましょう。

第1章 人間学の誕生 ― ソクラテスの場合
第2章 人間学の基礎と方法
第3章 人間観の類型学からミニマム人間学へ
第4章 ホモ・シグニフィカンスの存在論(1):身体
第5章 ホモ・シグニフィカンスの存在論(2):言語
第6章 ホモ・シグニフィカンスの存在論(3):心
第7章 〈人格〉としての人間
第8章 子供と大人
第9章 性を生きる人間
第10章 人生の意味と無意味
第11章 死

上記のタイトルを一望しただけでも、この書物が、人間学のスタンダードな入門書を意図したものであることはお分かりになるでしょう。

ただし、「ホモ・シグニフィカンスの存在論」という用語は、一般の人には耳新しいものでしょうから、「なんだろう」ということになるかと思います。

この概念については次回の講座で解説する予定ですが、著者の人間学研究も20世紀以降の哲学の流れを反映したものであるため、わたしたちにも昨今の哲学思潮に対する基本的な理解が必要になります。

そのため、次回の講座では、哲学の話も交えつつ「ホモ・シグニフィカンス」について解説することになりますが、一般の人に理解できない人間学の話にはしたくないので、この用語についてもなるべく平易な解説をするつもりです。

この著作の構成の話に戻りましょう。

第1章から第3章までの内容は、本講座でもすでにある程度の解説を行っています。

ですから、その内容をここであらためて解説する必要はないでしょう。

この書物の第1章から第3章までの内容は、第4章以降の内容を導くための導入の役割を果たしています。

ところが第4章以降は、いわゆる現代哲学の基礎的な素養が必要となる内容であり、哲学の基礎知識なしに誰もがサクサク読めるような話にはなっていません。
本文のなかで著者が引き合いに出している人物たちも、デカルト、ユクスキュル、メルロ=ポンティ、カッシーラー、グッドマン、ソシュールなどであり、これらのひとたちの著作は、決して広く一般に読まれているわけではありません。
わたし自身も、ユクスキュルやグッドマンなどは、本書によって初めて知ることになった人物でした。

したがってこの講座の役割のひとつは、いかにして哲学の専門用語を使わずにこれらのひとたちの仕事を説明し、いま現在の人間学の到達点を平易な言葉で叙述するか、というところにあります。

さいわいなことに、菅野氏の文章は非常に明晰で、含蓄のある表現に富んでいながら、その叙述に曖昧な部分はまったくありません。これはわたしが思うに、学術書の文体のひとつの模範というべきものです。

学術書はともすると、難解な用語の乱用によって全体の要旨が定かでないものになりがちですが、この著作は、いろいろとあら探しをしたとしても不要な表現を見いだすことはできず、用いられるすべての術語がきちんとストライクゾーンに入っています。

「学者なのに品格のある文章が書ける」というのは、じつは世間にそうたくさんあるわけではないので、そういう意味でも、この著作は、人間学の研究を志すわたしたちにとってありがたい文献だということができるでしょう。

菅野氏の著作をはからずもずいぶん褒めてしまいましたが、この著作の冒頭で、著者自身が『人間学とは何か』の概要を語っているので、少し長くなりますが、以下に引用しておきましょう。

私は以下の章を費やして人間学の構想を具体的に明らかにしてゆくことにしたいが、読者のための道案内という意味で、はじめにこの場所で各章の内容についてごく簡略に説明しておきたい。
第1章では、歴史を顧みるとき、古代ギリシアの哲学者ソクラテスの思索によってその後の人間学の骨格ないし基本的構成が-ある意味では決定的に-形づくられた次第を具体的に調べることにしたい。
第2章では、人間学と経験科学との関係に留意しながら、人間学がどのような成立基盤をもつのか、科学が前提する存在論とは異なる、人間学に固有の存在論とはどのようなものかを明らかにする。
次の第3章では、二十世紀ドイツで提唱され探究された「哲学的人間学」が生んだ一つの成果である人間観の類型学を批判的に考察し、それに代わる案として「ホモ・シグニフィカンスの人間観」を提案する。その具体的内容については、本章以降の各章で展開することにしたい。
第4章、第5章、第6章の三つの章の目的は、人間の存在構造を新たな人間観(すなわち、ホモ・シグニフィカンスの人間観)に立って模索しつつ描写することである。これらの章では、本書とは異なる見地の吟味や歴史的考察はひとまずおあずけとして、できるだけ端的に著者の見地を打ち出すことを目的としている。読者には、あくまでもこれらの考察を無批判に受け入れるのではなく、人間の存在構造解明への一つの糸口として、自分自身の思索を深めるために役立てていただきたいと思う。
第7章から第9章の三つの章は、前の三つの章で検討した人間の存在構造がもっとも基礎的な部面に限られるとするなら、存在構造のいっそう具体的かつ展開を遂げた形態について考察をおこなう。すなわち、第7章では、カテゴリー論の見地から〈人格〉というあり方を批判的に調べることになる。ついで第8章では、人間は発達する生き物であるという基本の視点から〈大人〉との比較で〈子供〉について論じる予定である。また第9章は、性を生きざるをえない人間のあり方について基礎的な問題を考えてみる。
残された二章は、いわば人生論的な要素ももちあわせた人間学的考察となるだろう。人生の意味と死とがそれぞれの章のテーマである。もちろん限られた紙面のために委細をつくした議論は不可能だし、経験科学からの知見もほとんど採り上げることができないが、問題の眼目は明確にしたいと考えている。

以上が、著者自身による『人間学とは何か』の概要です。

人間学の二つのテーマ


いましがた引用した菅野氏の叙述のなかに、次のようなくだりがありました。

「古代ギリシアの哲学者ソクラテスの思索によってその後の人間学の骨格ないし基本的構成が ―ある意味では決定的に ― 形づくられた」

「ある意味では決定的に」という言い方が、少し気になりますね。人間学にとって、ソクラテスは何かしら決定的な役割を果たしているようです。

周知のように、ソクラテスは哲学の歴史において非常に重要な仕事をした人物ですが、人間学の見地から見た彼の業績については、本講座でも、第6回のところで解説しています。

ごく簡単に要約すると、ソクラテスは次の二つの問いを立てることによって(そしてそのテーマの探究を展開することによって)、その後の哲学の歴史に大きな影響を与えることになったわけです。

  • 人間とは何か、という問い。
  • 人間としてどのように生きたらよいのか、という問い。


当時はまだ自然科学のない時代でしたから、「人間とは何か」という問いを立てたところで、満足のいく回答が得られたわけではありません。

そればかりか、自然科学が急速に発展しつつある現代においても、「人間とは何か」という問題に関しては、いまだに十分な回答が得られていません。

その点を考慮に入れて考えてみても、ソクラテスの仕事はやはり重要です。

なぜなら、適切な問いを立てるということは、それ自体において重要な意味を持つからです。

人間学には、じつは二つのテーマしかありません。それが、ここに挙げた二つの課題であり、二千年以上も前にソクラテスが提起したものです。

この点については、『人間学とは何か』のなかにも次のような説明があります。

人間学の固有な主題が〈人間〉であることは言うまでもない。人間学とは人間を主題とする知的探究である。もっと精確にいうと、人間学とは〈主題〉としての人間についての二つの基本的な問い ― 第一に、人間存在とはどのようなものかという問い(存在論)、第二に、人間の善い生き方とはどのようなものかという問い(倫理学)― をめぐる知的探究である、ということができる。存在論が人間なる存在者の〈構造〉を哲学的に解明する仕事を受け持ち、倫理学の仕事が、人間の行動や人格の善し悪しを吟味し正しい生き方を探索すること ― 約言すれば、人間的な〈価値〉と〈規範〉の解明に当たることにあるとするなら、以上に見てきたように、ソクラテスの思想はすでに「人間学」の名に値すると言わなくてはならない。哲学史上はじめて本格的に人間の構造と価値について思索を傾けたのは、まさにソクラテスだったからである。

人間学には二つのテーマしかないとすれば、わたしたちが最初にとりくむべき課題は、「人間の存在構造の解明」になります。第一の課題が明らかにならないまま第二の課題に移ることはできないからです。

『人間学とは何か』を読んでみると、菅野氏はこの第一の課題に対して、「ホモ・シグニフィカンス」という回答を提起していることがわかります。そして、この点に着目してこの書物を概観すると、『人間学とは何か』は、前半(第1章から第6章)が人間の存在構造の問題についての話、後半(第7章から第11章)が人間の生き方の問題についての話になっていることがわかります。

とするなら、人間学のテーマ自体はソクラテス以来変わっていないわけで、わたしたちはまず、この点を了解しておく必要があるでしょう。

逆に言うと、この点さえ了解してしまえば、この学問はかなり明瞭な輪郭をわたしたちに示してくれることになります。

前回の講座で、わたしは「新しい人間学」の構築を予告しましたが、日本人間学会の研究のテーマも、ひとつは人間の存在構造の解明であり、もう一つは、人間のより良い生き方についての探求です。

もしもこの二つの課題が統合的なものとして解明されるとすれば、それはおのずから、グランドセオリーというべきものとなるでしょう。

ここで言うグランドセオリーとは、世界の成り立ちから世界の終わり(世界の壊滅や消滅ではなく理想的な世界の実現といったほどの意味です)までを一貫した論理で説明するもので、言うまでもなく、わたしたち人類の歴史においてはまだ一度も現れたことがありません。

キリスト教の神学や共産主義の理論などはグランドセオリーに近いものと言えますが、この二つの理論にはイデオロギーの要素も多分に含まれており、「信じれば真実になる」といった次元のものにとどまっています。

そして、この二つの世界観の水と油のような関係が、現在のアメリカと中国の対立の遠因(ある意味では最も主要な原因)となっているわけですが、この問題についてはまた別のところで話すことにしましょう。

「意味」を求める存在としての人間


このあたりで、今回の話の内容をまとめておきましょう。

菅野氏の提起した「ミニマム人間学」の功績は、ホモ・シグニフィカンスという人間観をわたしたちに示したことにあります。

この新しい人間観については次回の講座で解説しますが、話をわかりやすくするため、菅野氏が用いているシグニフィカンスという用語の意味を、ここで確認しておきましょう。

significance を辞書で調べてみると、「有意」という訳語がでてきます。「有意」は日常語としてはあまり用いられませんが、有意義という言葉の意味とほぼ同じです。

これは元々数学や統計学の分野において使われはじめた用語で、確率的に偶然とは考えにくく何らかの意味があるとみなされる事象に対して使われる言葉です。
このシグニフィカンスという用語にホモ(人間)という用語を組み合わせて、ひとつの学術用語をこしらえたわけですね。

ただし、ホモ・シグニフィカンスという用語自体は菅野氏の発案ではなく、前世紀のなかばくらいから用いられています。

この用語を自覚的に用いた著名人はロラン・バルト(1915〜1980)で、彼はこのことばを、どちらかというと否定的なニュアンスで用いています。

日々の小さな出来事にも「意味」を求めてしまうのが人間というものだ、といった具合にです。

これは、たとえば、「時間ができたので前から観たいと思っていた映画を観てみたが、あまり面白くなかった。意味のない休日を過ごしてしまった」といったことを指します。

たとえ休日であっても「意味のある余暇を過ごしたい」と思うのが、人間のサガだというわけです。
 
菅野氏は、バルトなどが軽い気持ちで使っていたホモ・シグニフィカンスという用語を人間学のなかに持ち込み、それに重要な意味を持たせ、新たなる人間観として再生させたわけです。

フランクルのロゴ・セラピーと「ホモ・シグニフィカンスの人間観」とは不思議なつながりがありますが、この点についてはまた別の機会に話すことにしましょう。

9回


今回は、菅野盾樹氏の『人間学とは何か』のなかで提示されている「ホモ・シグニフィカンスの人間観」について解説します。

「シグニフィカンス」の語義的な意味については、前回の講座で説明してあるので、ここでは簡単に振り返るだけにしておきましょう。

この用語の「有意」という訳語は「有意義」という言葉とほぼ同義と考えてよく、自分が関わる物事に意義や価値を求める(意義や価値があってほしいと思う)人間の特性に着目したのが、ホモ・シグニフィカンスの人間観、ということになります(この概念にはもっと広い意味がありますが、さしあたりこの程度の理解から学びをはじめていきましょう)。

たしかにわたしたち人間は、ただ身体の生命だけを維持していればいい、という存在ではありません。

自分の存在を絶えず気にかけているのがわたしたち人間ですから、自分のことにまったく無関心な人はいないはずで、自己が常に自己に関わっているという点で(そして自尊心というものがその中核にあるという点で)、人間はほかの動物たちとは決定的に違います。

では、菅野氏はこのような人間の特性についてどのような話をしているのでしょうか。

しばらくのあいだ、菅野氏の論議に耳を傾けてみることにしましょう。

人間の存在構造の問題


前回の講座で紹介した『人間学とは何か』の章立ての一部を再度引用すると、次のようになります。

第4章 ホモ・シグニフィカンスの存在論(1):身体
第5章 ホモ・シグニフィカンスの存在論(2):言語
第6章 ホモ・シグニフィカンスの存在論(3):心

人間には心があり、そして体があるということは、誰もが了解している基本的な事実ですね。

実際、西洋の哲学もデカルト以来、人間の存在を心と体の二元的なものとして捉えてきました。

デカルト以前にさかのぼってみても、たとえばソクラテスは身体のなかに魂が宿っていると考えていたし、アリストテレスの哲学においても、この世のすべてのものは「形相」と「質量」によって成り立っていると考えられています。

簡単に言うと、この世界は見えるもの(形のあるもの)と見えないもの(形のないもの)の相互補完的な関係(もしくは表裏一体の関係)によって成り立っているというわけです。そしてこの考え方は、わたしたちの常識とも一致します。
ところが、菅野氏は、人間を心と体の二元的な構造体と捉えることに疑問を投げかけます。

その理由をごく簡単に説明すると、「言語」もまた「心」や「体」と同じくらい人間にとって本源的なものではないか、という疑問があるからです。

そこで、ホモ・シグニフィカンスの人間観においては、人間の存在構造を「身体ー言語ー心」と考えるわけです。

このあたりの事柄について、菅野氏の論議をいくつか引用しておきましょう。

古来、人間は理性的動物と見なされ、古代ギリシアで確立されたホモ・サピエンスの人間類型は歴史的に大きな影響をふるってきた。これらの人間観の根底には、人間がことばを話すという理解、ソシュールのいう言語能力をもつという理解が横たわっていた。特にその点を強調した人間観は、〈ホモ・ロクエンス〉(ことばを話す人)と呼ばれる。人間が産業に従事し複雑な社会を営み学問を構築することができるのは、つまり一言でいって〈文化〉を営むことができるのは、言語能力を所有するからである。たしかにこうした人間観には多分に真理が含まれている。とはいえ、あえて言うならこの人間観には狭すぎるという欠点がある。なぜなら、人間はいわゆる「言語」以外にも表現能力において優るとも劣らない様々な記号機能(知覚、表情、絵画、ダンス、音楽、身振り・・・)を有するからである。その意味でむしろ人間は〈ホモ・シグニフィカンス〉(記号機能を営む人)にほかならない。
しかし、言語が記号機能の中で枢要な位置を占めることもまた確かなことである。問題は〈言語〉を旧来の誤解や偏見から救い出すこと、人間の存在構造そのものとしての言語を正しく認識する点にある。ヒトという動物は言語を生きるかぎりにおいて人間となるという意味で、人間とはそのまま言語なのである。(『人間学とは何か』p71〜p72)

「ヒトという動物は言語を生きるかぎりにおいて人間となるという意味で、人間とはそのまま言語なのである」という果断に富んだ宣言が、非常に印象的ですね。

また、デカルト以来のいわゆる物心二元論について、菅野氏は次のように語ります。

デカルトにおける二元論の成立を追体験するとわかることは、二元論がそれ自体きわめて不安定な体系だという点である。心身問題の解決を目ざして、身体ないし物質の要素を重視する人々は、心ないし精神を物質的なものへと還元することを企てる。この行き方がいわゆる唯物論にほかならない。反対に、事物の認識が心の働きである点を強調する人々は、心が認識するかぎりでしか事物の存在を確証できないという理由で、物質的なものを精神的な要素へ還元しようとする。これがいわゆる観念論である。唯物論にしても観念論にしても、それらの考え方の前提には心身の二元論があることに注意しなくてはならない。二元論のバランスが破綻して、物体か精神かのどちらか一方へ体系が傾いた結果、一元論としての唯物論ないし観念論が得られることになるからである。(p55)

『人間学とは何か』では、この叙述のあとに、「二元論を括弧に入れる」という小見出しが続きます。そのセクションの要点は最後の部分に明瞭に出ているので、以下に引用しておきましょう。

デカルトはいったんはすべてが疑わしい、確実なものは何もないという結論に達する。ところがここで一種の逆転現象が生じる。すべてが疑わしいとしても、疑っているかぎりでの私の存在はかえって疑いえないのだ、というドンデンガエシである。こうして有名な「私は考える、ゆえに私はある」の宣言となる。「疑っているかぎりでの私の存在」とは、懐疑が思考の一つの様態であるかぎり、思考という働きそのものが生起していることを意味する。「精神」という実体の定立まではあと一歩である。そして神は別格として、この実体と対立するあらゆる他のものが「物体」という実体として前者に対置される。こうしてデカルト的二元論の成立が宣言されるのだ。
ところが私たちは、「懐疑の物語」が言語と共同体とを前提とするかぎり、物語としての成功がむしろ形而上学(直接には、心身の二元論)としての破綻を意味することを知っている。これが私たちがデカルト的二元論を括弧に入れる歴史的理由にほかならない。(p57〜p58)

菅野氏の叙述は常に明晰なので、上記の引用文に対する解説は不要だと思いますが、念のため、「デカルト的二元論」の弱点をわたしなりに要約しておくと、「デカルトの思想もことばがなければ成立しない」ということになります。

「われ思う、ゆえにわれあり」という有名な名言にしたところで、人間は言葉がなければ「思う」ことすらできないわけですから、人間と言語の関わりの問題は、現代哲学(とりわけ構造主義台頭以降)の主要なテーマとなってきたわけです。

菅野氏はデカルト的二元論に対する批判を行ったあとで、もちろんその代案を示しています。それがすなわち、「ホモ・シグニフィカンスの人間観」の提示となるわけですね。

その部分を引用しておきましょう。

このテクストで私たちが「人間の存在論」と呼ぶのは、人間の存在構造への問いに答えようとする知的探求である。すなわち、人間とはいったい何だろうか、どのような性質や成り立ちをしているのかといった問いへ、経験科学の知見からできるかぎり学びつつ、しかも客観主義や実在論の形而上学にとらわれることなく、合理的でバランスのとれた人間像を描写しようとする試みにほかならない。心と身体の古典的二元論を括弧に入れた私たちがその代わりに用意している新たな枠組みは、人間存在を、身体・言語・心という三つの秩序の統合体と捉える人間観である。(p58)

以上の説明で、「ホモ・シグニフィカンスの人間観」がおよそどのようなものかということは、ある程度お分かりいただけたのではないかと思います。

世界認識の窓口としての言語


最後に、ことばと「もの」との関係、あるいはことばと「世界」との関係について、少しばかり考えておきましょう。

といっても、難しい話をするつもりはありません。

これから話そうと思うのは、わたし自身の経験談です。

わたしが「ことばの問題」に関心を持つようになったのは、大学で受けたある講座がきっかけでした。

その講座の担当者は、鈴木孝夫教授(1926〜2021)。

今から40年ほど前のことになりますが、当時わたしは大学一年生で、「履修案内」の次のような講座説明に興味を持ち、受講することにしたのでした。

人間という動物を、他の動物から決定的に区別する特徴は言語である。我々の日常生活はもちろん、学問や知識の伝達も、その大半を言語情報に依存していることは明らかである。いやそれどころか、人間が事実を認識する行為そのものすら、言語という媒体を通すことが多い。現在の人間は本能という決定論的な性格の強い行動様式を極小化し、そのかわり文化という集団および個人の行動を基本的に規制する原理で動いている。その文化が、また言語のしくみと不可分の関係にあるのだ。本講義では、このような複雑で重要な言語現象を単に一つの学問つまり言語学としてではなく、人間理解の手がかり、ひいては自分というものの正しい位置づけの手段として考えていくつもりである。
テキスト:鈴木孝夫『ことばと文化』岩波新書851

当時の鈴木先生は慶應義塾大学の言語文化研究所の教授で、学問の研究者(つまり普通の意味での大学教授)というよりも、学術分野の探求者といった風格をお持ちの方でした。

大学教授の講座は一般的に言ってあまり面白いものではありませんが、鈴木先生の講座は別格でした。

水曜か木曜の5限だったと思いますが、日吉キャンパスの中規模の教室で先生の話に90分間耳を傾けることが、当時のわたしの楽しみのひとつでもありました。

マイクを片手に滔々と「ことばの問題」を論じ続ける鈴木教授の姿に接して、「知識人とはこういう人のことをいうのか」という印象を持ったことを、今でも覚えています。
その講座でテキストとなっていた先生の著作(『ことばと文化』)は1973年に出版されており、英語や韓国語にも翻訳されているベストセラーです。

この本についてここで詳しい説明をする余裕はありませんが、ことばと「もの」との関わりに関して重要と思われる部分を一箇所、引用しておきましょう。

ところが、ことばとものの関係を、詳しく専門的に扱う必要のある哲学者や言語学者の中には、このような前提について疑いを持っている人たちがいる。私も言語学の立場から、いろいろなことばと事物の関係を調べ、また同一の対象がさまざまな言語で、異なった名称を持つという問題にも取り組んできた結果、今では次のように考えている。
それは、ものという存在が先ずあって、それにあたかもレッテルを貼るような具合に、ことばが付けられるのではなく、ことばが逆にものをあらしめているという見方である。
また言語が違えば、同一のものが、異なった名で呼ばれるといわれるが、名称の違いは、単なるレッテルの相違にすぎないのではなく、異なった名称は、程度の差こそあれ、かなりちがったものを、私たちに提示していると考えるべきだというのである。
この第一の問題は、哲学では唯名論と実念論の対立として、古くから議論されてきているものである。私は純粋に言語学の立場から、唯名論的な考え方が、言語というもののしくみを正しく捉えているようだということを述べてみようというわけである。
私の立場を、一口で言えば、「はじめに言葉ありき」ということにつきる。
もちろんはじめに言葉があるといっても、あたりが空々漠々としていた世界のはじめに、ことばだけが、ごろごろしていたという意味ではない。またことばがものをあらしめるといっても、ことばがいろいろな事物を、まるで鶏が卵を生むように作り出すということでもない。ことばがものをあらしめるということは、世界の断片を、私たちが、ものとか性質として認識できるのは、ことばによってであり、ことばがなければ、犬も猫も区別できないはずだというのである。
ことばが、このように、私たちの世界認識の手がかりであり、唯一の窓口であるならば、ことばの構造やしくみが違えば、認識される対象も当然ある程度変化せざるをえない。
なぜならば、以下に詳しく説明するように、ことばは、私たちが素材としての世界を整理して把握するときに、どの部分、どの性質に認識の焦点を置くべきかを決定するしかけに他ならないからである。いま、ことばは人間の世界を認識する窓口だという比喩を使ったが、その窓の大きさ、形、そして窓ガラスの色、屈折率などが違えば、見える世界の範囲、性質が違ってくるのは当然である。そこにものがあっても、それを指す適当なことばがない場合、そのものが目に入らないことすらあるのだ。

ここに引用した一節には「ことばがものをあらしめる」という小見出しがついています。少し長くなりましたが、この箇所がひとつの意味段落を形成しているため、全文を引用しました。

どうやら言語というものは、わたしたち人類が進化の過程において、それがあれば便利だから、という理由でたまたま発明し使いはじめたものではないらしい、ということのようです。

このあたりの問題はさらに深い考察が必要となりますが、ここで掘り下げてみる紙幅の余裕がないので、次回の講座のなかであらためて考えてみることにしましょう。

10回


前回の講座では、「ホモ・シグニフィカンスの人間観」についての解説を行いました。

わたしはこの人間観を、現在の人間学における最も有力な見解であると考えていますが、この学説が完璧なものであり、人間学の研究が菅野盾樹氏の登場によって終着点に到達したとまでは思っていません。

そこで、今回は、「ミニマム人間学」を提示した菅野氏の仕事(おもに『人間学とは何か』の著作を指します)の功績とその限界について考えてみたいと思います。

「ミニマム人間学」の功績と限界


「ミニマム」という英語は最小限という意味で、マクシム(最大限)とともにアンプの音量表示などによく使われます。

菅野氏は自らの人間学をミニマム人間学と呼称していますが、このことは逆に言うと、菅野氏以前には人間学の基礎づけすら充分なされていなかったことを意味しています。

わたしが思うに、菅野氏の登場によって、人間学は揺るぎない基礎を現代哲学のフィールドに築くことができたのです。

これがなんといっても、菅野氏の仕事のいちばんの功績であるとわたしは考えています。

菅野氏は自身の人間学研究が「ミニマムなもの」であることを充分承知しているので、まずはこの点に関する氏自身のことばに耳を傾けてみましょう。

本書は「人間学」という学問を体系的に記述し展開することを目的とするものではまったくない。また「人間学」の全体像をいわばスケッチとして描き出すことを目指したものでもない。私はもともと「人間学の基礎」という表題をこのテクストにつけようと考えていた。その表題には筆者として二つの意味を込めたつもりである。一つには、この表題は、現代において「人間学」という総合的な学問が果たして可能であろうか、可能だとすればそれにはどのような学問的制約がともなうのか、という問題意識を表している。本書はそうした意味で人間学の「基礎」についての考察であり、筆者なりの基礎の敷設を読者に提示する試みである。
第二にこの表題は、「人間学」を樹木にたとえるなら、本書の課題がもっぱらその根や幹にあたる部分についての考察に限定されることを意味している。人間学の基幹部分を、本書では「ミニマム人間学」と名づけている。それは人間の基礎的な存在構造を明らかにすることを任務とする人間学的探究の部面である。したがって本書では、人間の存在構造のさまざまなディテールを取り上げて論究することはほとんどしていない。すなわち、社会的動物としての人間が営む経済、法、倫理、習俗などの諸問題には、意図的に立ち入ることをしていないし、文化を営む動物としての人間が創りだす科学、技術、藝術、儀礼、宗教などについても、同様に考察をあえて控えている。以上のような意味あいで、本書の眼目はあくまでも「人間学の基礎」についての考察にある。(『人間学とは何か』p6〜p7)

菅野氏は、自身が提示する人間学がどのような限界をもっているかということにも十分に自覚的ですね。

『人間学とは何か』において、菅野氏は、時代の要請でもあった「人間学の基礎」の構築を見事に成し遂げたといえるでしょう。なにごとであれ、基礎を築くのは重要な仕事ですから、少なくともこの一点において、菅野氏の仕事は不朽のものであるとわたしは思います。

すでに述べたように、「ホモ・シグニフィカンスの人間観」の登場の背景には、20世紀に成立した言語学や分子生物学の存在があります。ところが、菅野氏はそうした学問の成果とともに仏教倫理学の知見も紹介しています。そのあたりの視野の広さも氏の著作の魅力のひとつでしょう。

その部分は今後、宗教と人間学の関わりの問題を考えるうえで重要な視点となるため、少し長くなりますが、以下に該当箇所を引用しておきましょう。テキストをお持ちの方は、58ページを開いてみてください。

参考までに付け加えておくなら、人間存在の身体-言語-心の三重構造という把握は、古代東アジアの人間観でもあった。仏教の思想では、「身口意の三業」ということをいう。〈身〉は身体を、〈口〉は〈語〉とも漢訳されて言語を、〈意〉は心を意味する。そしてあらゆる〈業〉は身業つまり身体的行為、口業つまり言語表現、意業つまり心的作用の三業に包括されるという。こうした把握のすぐれた点は、人間のなしうるすべての行為(業)に基づいて人間の存在構造を規定したことであろう。言語がすでに行為として正確に捉えられている点は特筆に値する。こうした認識が西洋で確立したのは二十世紀になってからにすぎない。またこの存在構造の把握がそのまま徳の倫理学へ展開してゆく点にもすぐれた洞察が含まれている。すなわち、仏教倫理学の体系は、基本的に身口意の悪業を戒め善業を推奨することから成っている。悪業には、まず身の三業(殺生、偸盗、邪淫)、次に口の四業(妄語、両舌、悪口、綺語)、最後に意の三業(貪欲、瞋恚、邪見)の、全部で一〇種類が数えられている。一見して素朴な倫理学のように見えるが、ここには十分に掘り下げるべき多くの問題が残されている。私たちは、西洋の近代に確立された心身の二元論をいったん離れた立場で人間への考察を開始した。いまや私たちは、古代アジアの人間観から直接学ぶ可能性を手にしていることになる。本書では非西洋世界の人間観に主題的に立ち入ることはしないが、この可能性は記憶に銘記したい。

「人間」と「言語」には切っても切れない関係があることを仏教はすでに説いているわけですが、言語の本源性についての洞察は、仏教に限ったことではありません。世界三大宗教のひとつ、キリスト教の教典である新約聖書をひもといてみても、言語に関する注目すべき洞察が見出されます(本講座での聖句の引用はすべて「聖書協会共同訳」を使用しています)。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。

これは、『ヨハネによる福音書』の1章1節から4節までの聖句です。

また、先に引用した仏教の教えとイエスの教えにも、実は共通点が見出されます。『マタイによる福音書』の15章10節から20節まで読んでみましょう。

それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」
その時、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。
イエスはお答えになった。「私の天の父がお植えにならなかった草木は、みな根こそぎにされる。放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人である。盲人が盲人を手引きすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」
するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。
イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。口に入るものはみな、腹に入り、外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来て、これが人を汚すのである。悪い思い、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒瀆は、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、人が汚れることはない。」

このように見てくると、「ホモ・シグニフィカンスの人間観」は、西洋哲学や現代科学の知見を背景として登場した人間観であるとともに、広く東西の伝統的な宗教の世界観とも融和することのできる人間観であることがわかります。

このような人間観を明確に打ち出した点は、何より「ミニマム人間学」の功績と言えるでしょう。

では、「ミニマム人間学」の限界とはどのようなものでしょうか。

これについては、近代以降の哲学の流れを視野におさめながら考えてみる必要があります。

「ミニマム人間学」の登場から今日まで、およそ20年の歳月が過ぎていますが、菅野氏はその後、人間学に関する体系的な著述を世に問うていません。また、別の人が菅野氏の仕事を引き継ぎ、何らかの体系的な人間学の著作があらわされたという話も聞きません。

すなわち、「ミニマム人間学」は「ミニマム人間学」のままでとどまり、今日に至っているのです。

「ミニマム人間学」は一般に、20世紀初頭に確立した哲学的人間学の現代化(バージョンアップ)に挑戦し一定の成果を収めたもの、といった評価を得ていますが、今のところこれ以上のことは何とも言えない、という状態になっているわけです。

人間学の基礎づけはなされたものの、その基礎の上にはまだ何の建物も建てられていない、ということは、言うまでもなく、「哲学的人間学」は基礎の敷設の状態のままで停滞していることを意味します。

とするならば、現在の人間学は、何らかの理由で行き詰まりの状態にあると考えられます。

では、「ミニマム人間学」の登場以後、なぜ人間学を本格的に体系化する業績があらわれていないのでしょうか。

このような問題に対し、単に「人材不足」といったような回答を出してしまうと元も子もないので、ここでは先にも述べたように、近代哲学の全体の流れを考慮しながら、「ミニマム人間学」の限界の問題について考えてみることにしましょう。

デカルト哲学の功績と限界


『人間学とは何か』には、デカルト以来の哲学の知見が含まれていますから(この点がこの著作が持っている説得力のひとつになっています)、「ミニマム人間学」の限界について考えるためには、デカルト哲学の限界について考えてみなければなりません。

(この講座は人間学の初学者をおもな読者層としていますが、煩雑になるのを避けるため、デカルト哲学の概要の説明は省略します。デカルトの「方法的懐疑」については『人間学とは何か』の56ページにも簡明な解説があるので、その箇所をお読みになってみてください)。

デカルトは、若い頃イエズス会が運営するラ・フレーシュという学校に学び、その時代の最高の教育を受けながらも、スコラ哲学などの学問に満足することができず、自ら思索を重ね、近代人の発想に目覚めることのできた人です。

デカルトの著作には、『方法序説』のほかに、『省察』、『哲学の原理』、『情念論』、『精神指導の原則』などがあります。

『方法序説』は、哲学のみならず広く一般の学問の方法について述べたものですが、学問の方法論を正面から論じた著作はそれまで存在しなかったため、これが時代のエポックメイキングとなったわけです。

デカルトが生きていた時代に主流だった哲学はスコラ哲学と呼ばれ、それは「哲学は神学のはしため」という原則のもとに存在することが許された学問でした。デカルトは、学問のなかに信仰を持ち込むことをせず、信仰と理性を分離することで、哲学の新しい出発を可能にしたのです。

デカルト哲学の功績を簡単にまとめてみると、次のようになるでしょう。

  • 哲学が神学から独立したことで、人類はキリスト教の世界観から解放され、合理的な思考を自由にめぐらせることができるようになり、そこから科学が生み出され、科学の発達によって近代的な文明社会を築くことができるようになった。


これが、デカルト哲学の功績です。

では、デカルト哲学の限界とはどのようなものでしょうか。

この問題についてわたしなりにごく簡単にまとめてみると、次のようになります。

  • 哲学が宗教から分離し、科学が哲学から分離したことで、宗教と哲学と科学がそれぞれの道を歩んだまま共通の場を持つことができず、おたがいに対話することのできない状態に陥っている。そしてそのこと(意思の疎通ができなくなっていること)が、さまざまな対立や紛争の種になってしまっている。


20世紀の初頭、マックス・シェーラーが「哲学的人間学」の必要性を訴えたのは、宗教と哲学と科学の分離によって統一的な世界像が失われていくことに危機感を抱いたからにほかなりません。

そして、このような状況は今日に至るまで続いているのです。

浮上する「存在論」の問題


「ミニマム人間学」の限界の問題は、近代哲学(現代哲学を含む)の限界の問題と深い部分で関わり合っています。

その点については今し方見てきた通りですが、問題点を指摘する以上、その解決策を提案し、ものごとを建設的に進めていくのが大人のやり方というものですね。

日本人間学会では、10年以上前から「ミニマム人間学」の限界を指摘する声があがっていました。わたしももちろんそのうちのひとりでしたが、その代案の提示ともなると、これは途方もない仕事となります。

ところがその「途方もない仕事」をやってくれたひとたちが学会のなかにいらっしゃるので、わたしのこの講座もその恩恵に浴しているというわけです。

これは、とても希望的なことだとわたしは思っています。

では、その「途方もない仕事」とは、具体的にはどういうものでしょうか。

それは簡単に言うと、現代哲学の新しい基礎づけです。

わたしはいま、とても大それたことを言ってしまいましたが、学術の世界に深く関わっている人であればあるほど、「そんなことはありえない」と思われることでしょう。その気持ちは、わたしにもとてもよくわかります。なぜなら、わたし自身がそのように考えるタイプの人間ですから。

デカルト以来数百年も続いている哲学の歴史。

この数百年の歴史のなかには、天才的な哲学者が何人もあらわれ、人間存在の根本問題についてあれやこれやと思索を重ねてきました。

そのおかげもあって、哲学は時代とともに深化し、またそれと歩調を合わせるかのように、科学技術もめざましく進展してきました。

ところが、です。

近代の数百年の歴史を振り返ってみると、人類は必ずしも「希望」に向かって歩みを進めてきているわけではありません。それが証拠に、前世紀には二度も世界大戦が勃発しているし、そのあとには冷戦がはじまり、冷戦のあとにはさまざまな民族紛争が続いていますね。

そして現在においては、アメリカと中国の対立の構図がますます顕在化してきています。なかには、第三次世界大戦の勃発を危惧する声さえあるほどです。

ですから、デカルト以降の近代哲学の進展が近代社会の平和的な発展に寄与しているとは、お世辞にも言えないわけです。

デカルトは独自の発想によって、「思考する人間の思考する限りにおいての実在」を定理とする哲学の旅をはじめましたが、その定理のなかには「自分以外のものはすべて疑わしい」という懐疑主義が含まれているため、物質的な実在の世界を探求する自然科学は進展しても、本家本元の哲学は、そのようなデカルト哲学の流れから豊かな実りを収穫することができないできました。

もともと世界のすべてを疑っているのですから、そこから何かの建設的な世界観が構築されることはないわけです。

(さらに言うと、バブル経済の時期に訪れたポストモダンの時代には、構築よりも「脱構築」の風潮が強まり、建設よりも解体のほうに力点がおかれていました)。

では、デカルト以来数百年におよぶ近代哲学のそのような「負の連鎖」を根本から断ち切るような新しい哲学は、今のこの時代に本当にあらわれたのでしょうか。

もちろん、「あらわれました」などと軽々しく断言することはできません。
しかし、少なくとも新しい出発にはなっているのではないか、とわたしは考えているのです。

ただし、ここでその問題を掘り下げていく余裕はないので、また回を改めて話すことにしましょう。

次回の講座では、「現代哲学の新しい基礎づけ」とは具体的にどのようなものか、というテーマについて話します。

「新しい人間学」は、当然のことながら、「新しい哲学」の土台を必要とします。

「新しい哲学」は「世界に対する新しい見方」を必要としますが、「新しい世界観」の定立のためには、「新しい存在論」が必要です。

では、その「新しい存在論」とはどのようなものでしょうか。

次回は、ある一冊の著作を紹介しながら、そのあたりのことをお話しすることになります。

では、今回の話はこのへんで。