人間学の現在(21回~30回)

21回


今回は『情然の哲学』第6章の解説です。

この章のタイトルは、「人生の目的」というもの。そしてサブタイトルは、「私」が存在する理由、というものです。

「人生の目的」が真剣に論じられるのは、人生論などの著作や宗教分野の著作においてでしょう。普通に生きているかぎり、わたしたちはこの問題について誰かと議論を交わしたりするようなことはありません。「人生の目的」は、人間なら誰もが考えるべき普遍的な問題である一方、実際には限られた領域においてしか議論されることのない問題でもあるのです。

では、なぜわたしたちは「人生の目的」について、日頃ほとんど考えたり話し合ったりすることがないのでしょうか。

この疑問に対するわたしの答えは簡単です。

考えてもわからないから、です。

わたし自身ずいぶん長い間、人生の目的という問題には万人に当てはまる普遍的な答えはないだろうと思っていました。

人々が自分の人生に設定する目標は千差万別のものであるはずですから、「普遍的な命題としての人生の目的」について考えるのは無理だと思っていたのです(目標が違うのに目的は同じだということはないだろうと思っていたのです)。
ところが、「情然の哲学」を学ぶことによって、この問題に関するわたしの考えは変わりました。

ですから、今回はおもに、そのあたりのことについて話してみることにしましょう。

サルトルの人間観


人生の目的について考える際、フランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトル(1905~1980)が提唱した実存主義の考え方が参考になります。

たとえば、いまわたしの手元にハサミがあるとしましょう。

ハサミが存在する目的は、はっきりしています。

それは言うまでもなく、紙などを切るためです。

ハサミという存在には「紙を切る」という「本質」が内在しており、何も切れなくなってしまったハサミはハサミとしての存在理由を失ってしまいます。そうなると、人はそれを「壊れたハサミ」と言うことになるでしょう。

壊れたハサミはもはやハサミとは言えませんから(「ハサミを貸して」と言われて使えないハサミを差し出す人はいませんね)、ハサミは「切る」という本質を失った瞬間にハサミとしての実存も失ってしまうことになります。

つまり、ハサミの場合は、本質が実存に先立つ、と考えることができるわけです。

では、人間の場合はどうでしょうか。

ハサミに限らず、わたしたちの身の周りにある道具的存在はすべからくその本質によって実存している存在ですが、人間の場合は違うのです。

なぜかというと、わたしたち人間には「実存に先立つところの本質」なるものがないからです。

それでサルトルは、「実存が本質に先立つ」という命題を立て、結果的にそれが世の中から、実存主義の哲学と呼ばれるようになったのでした。

ただし、サルトルの実存主義は無神論を前提としています。人間を創造した神がいないので人間は実存的な存在だ、というわけです。

たしかに神がいないとすれば、サルトルの主張は首尾一貫しています。この哲学が戦後の日本において大きな流行を見せたのは、当時の知識人の大半が特定の信仰を持っていない人たちだったからでしょう。

「情然の哲学」は、サルトルの実存主義とは別の見解を提示していますが、神がいるにしてもいないにしても、わたしたち人間が自由な存在であることに変わりありません。

わたしたちは、行動の自由や意思決定の自由を奪われたときに苦痛を感じます。
ですから、誰にとっても「自由であること」は、とても大切なことです。

ただし、それが神によって与えられたものと考えるか、それとも偶然にあるものと考えるかによって、わたしたちの人生観はずいぶん変わってきます。

『情然の哲学』の第6章がこれまでの人生論と大きく異なるところは、「存在とは何か」という哲学の根本問題に独自の回答を提示したうえでの論議になっていることです。

では、「情然の哲学」は人生の目的、あるいは「私が存在する目的」についてどのような見解を提示しているのでしょうか。

第6章の論理の展開を簡単に見ていきましょう。

人間と万物、人間と神の関係


『情然の哲学』には「原初格」という術語が登場しますが、わたしのこの講座は広く一般の方々を読者層に想定しているため、ここではこの概念を、神ということばに置き換えて考えてみることにしましょう。両者はイコールではないにしても、「ほぼイコール」という関係にあるからです。

また、神と人間以外の存在を、ここでは万物ということばであらわすことにしましょう。それぞれの存在はその生存のあり方や形態などが違うため、同じカテゴリーのなかで考えることができないからです。

では、この三つの存在はたがいにどのような関係にあるのでしょうか。
まずは、人間と万物の関係について考えてみましょう。

『情然の哲学』は、両者の関係について次のように語っています。

人間を含むすべての生物は、遺伝子中にインプットされた他律的指示情報に則って身体の形態や能力が規定されているため、意識せずとも身体による自律的な生命維持が可能になっている。心臓を動かすことや消化吸収の段取りなどを考える必要はない。本能も個々の生物が後天的に学習したものではなく、初めから他律的に与えられたものだ。
また、人間にもそれ以外の生物にも「心」がある。身体は物質的実在として物理法則に従って他律的に存在するのに対し、心は外部からの支配を受けない自律した情感と理性の融合した精神的実在である。両者は異なる現れ方をしながらも一個の生命体を形成する物心一体の状態にある。アメーバのような単細胞生物であっても、快・不快などを感じつつ(情感)、何らかの選択を行っている(理性)、という観点からすれば、低レベルではあっても「心」があると考えられる。さらには物質でさえ、家族的四位構造としてその内部に情感性・クオリアと法則性・規定性を有しているということから「心」のような要素があると考えなければならない。
存在がこのような二重構造であるがゆえに、自然界は共有する「心」を通じて有機的な調和状態を確立することができ、人間と人間以外の存在においても愛による関係性を結ぶことが可能となると考えられる。

世界の根源(アルケー)が「情然」であることを考えるならば(そして存在の成立条件が「家族的四位構造」であることを考えるならば)、そこから生まれ出たすべてのものに「心」を認めるのは合理的な思考です。

常識的な意味での心ではないにせよ、動物・植物はもとより物質のなかにも心(に相当するもの)があると考えるのも、さほど珍しい見解ではないでしょう(日本に古くからあるアミニズムもこれに近い思想だといえます)。わたしたちがこの世界の森羅万象と愛の関係をもつことができるのも、それらすべてのものに心があるからだというわけです。

では、人間と万物の違いとは何でしょうか。

『情然の哲学』を読んでみましょう。

次に人間と人間以外の存在との相違点について。
まず、人間には自分を超えた視点から自分(自我)を意識できるような最高度の精神的な能力が備わっている。そういった意味では人間は「最初の自我」である原初格と同じ位置に立っているともいえる。一方、他の生物は心のレベルでいえば、原初格の自我が確立する以前、情感と理性がまだ曖昧であった状態がそのまま展開したものということになる。その一方で身体的な機能においては、運動能力や感覚器官の性能などむしろ他の動物のほうが優れている部分が多い。人間よりずっと長く生きる生物も少なくない。しかし精神的な能力にはやはり決定的な差がある。人間には、宇宙にあるすべてのクオリアに感応する感性があり、新たなクオリアを生み出す力もある。
もう一つの相違点は、人間と人間以外の存在では愛における立場が対極にあるということだ。すなわち「愛する立場(主体)=人間」と「愛される立場(客体)=人間以外の存在」の違いである。人間はあらゆる生命や存在と共に生きる立場にあるが、その価値は必ずしも他と同じではない。人間だけが自然や宇宙の価値を理解する高度な理性を有している。情然の哲学は、全生命全存在の中で、人間だけが特別な位置にあるということを認める立場にある。しかしその特権は、自然を思い通りに支配するためではなく、親のような立場で愛するためである。人間にとって自然は支配の対象ではなく愛すべき対象である。

この部分のすぐあとで、『情然の哲学』は旧約聖書の次の言葉を引用しています。

神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記 1章28節)

ここにあるように、「世界を治める」という観点から見た場合、人間と万物は対極の位置にあります。言うまでもなく、人間は治める側であり万物は人間によって治められる側です。

実際、この地球という星は現在、わたしたち人類に占領されていますね。遠い昔この地をわがもの顔で跋扈していた恐竜たちは絶滅し、いまは名実ともに、わたしたちがこの星の主人になっています。これは、人間の進化の過程でたまたまそうなったというものではなく、もともとそうなるべく定められていたというわけです。

そのあたりのところも、「情然の哲学」は聖書の思想と重なり合います。

では次に、人間と神の関係について考えてみましょう。

人間と神の関係について考えることは宗教の根本的なテーマであり、古くて新しい問題です。『情然の哲学』は、この歴史的な難問についてどのような見解をわたしたちに提示してくれているのでしょうか。

まず、次の箇所を読んでみましょう。

概念宇宙の進化と物質宇宙の進化を重ね合わせると、人間の出現は概念宇宙における原初格の確立と同じ位置に立っていると考えられる。原初格が概念的な「我と汝」の関係性の中で自我を意識したように、人間は実体的な「我と汝」の関係性の中で自我を意識する。そしてそれは、原初格の立場から見ると138億年の時を越えた「概念的・我」と「実体的・汝」の出会いでもある。

そして『情然の哲学』では、これに続く叙述のなかで非常に深い哲理が語られることになります。

わたしがへたな解説をするより、本文を読んでみるほうがいいでしょう。

原初格にとって人間は、実体的な「愛する汝(客体)」としての位置にあると同時に、概念的存在であった原初格が物理的実体として現れた「我」自体でもある。つまり人間は「身体を持った原初格(と同等の精神的実在)」であるともいえる。人間の心とは、本質的に原初格そのものでもあり、ゆえに人間の心と体が調和的に融合した状態は、原初格と人間が一つになっている状態と同じになる。心と体が不可分の関係であるように、原初格と人間も本来、分けられない存在なのだ。原初格を「神」とするならば、まさに人間は「神の子」であるということにもなる。それはまた、親としての「概念的自我」と、子供としての「実体的人間」の出会いでもあり、人間が子供を持つことで、その親子関係が無限に連続していく(原初格の精神史を追体験する)ようになる。
原初格があらゆる存在の始原として「親」の位置に立ち、愛もそこから始まるように、人間も万物に対して親の位置、つまり愛の主体に立っている。原初格が概念宇宙史の中で展開した愛のすべてを、人間は物質世界の中において実体的に展開していくことになる。そのため人間の精神的能力はまさに神のごとき無限の可能性と、完全な自由性を秘めていると考えられる。

以上が『情然の哲学』の提示する「人間と神の関係」です。

愛の理想と世界の創造


『情然の哲学』ではこのあと、人間の個性の問題、「私」の起源の問題、心の成長と教育の問題、心と体の関係の問題、善悪の基準の問題、性善説と性悪説の問題などが語られることになります。

心と体の関係の問題は、デカルト以来今日に至るまでさまざまに論議されている問題であるし、性善説と性悪説の問題に至っては、古代中国の諸子百家以来、実に二千数百年間も論争の続いている問題です。

これらはまさに究極的難問と言うべきものですが、これらの問題に対してわたしたちは結局、説得力のある回答を何も出してきませんでした。

ところが、「情然の哲学」はこうした問題にも正面から対峙し、決着をつけようとしているのです。

第6章の最後の小見出しは、「すべては愛の理想の実現のために」というものですが、愛というキーワードがそこに登場することで、「情然の哲学」の論理は一つの円環を形成することになります。

はじめにあったものが愛、途中のプロセスのなかにあるものも愛、最後まで存在し続けるものも愛、というわけです。

となると、この章で論じられている「人生の目的」も、また「私」が存在する理由も、その答えはやはり、愛、ということになります。

愛は一人では実現することができないので、わたしたち人間は家族のなかに生き、また社会のなかに生きるわけですね。

人生の目的の問題に関していちおうの結論が出たところで、今回の話はこのあたりにしておきましょう。

次回は第7章を解説します。

22回


今回は『情然の哲学』第7章の解説です。

この章のタイトルは、「世界平和に向けて」。サブタイトルは、「いま私たちにできること」というもの。

こんなに大きなテーマについていったい何を語るのだろう、と思い、好奇心に駆られながらわたしはこの章を読みましたが、著者の言わんとすることは明快で、しかも説得力のあるものでした。

この章のなかで、著者は、まず世界観の問題を取り上げています。これはこれでとても大きな問題ですが、わたしたちが心に描く世界観は、大まかに見ると三つの類型に整理できるというのです。そのため、この章の最初の見出しは「三種の人間観・世界観」というものになっています。

考察の素地になっているのはマックス・シェーラーの「類型学」ですが、このあたりは人間学の領域とも重なるので、少し掘り下げて考えてみることにしましょう。

世界観の三つの類型


哲学的人間学の先駆者と言われるマックス・シェーラー(1874~1928)は、その時代までに上梓された西洋の文献を幅広く調べ、人間の類型学というものを提示しました。

シェーラーのその業績は哲学の分野においても有名なもので、たとえば、菅野盾樹氏の『人間学とは何か』においても、「人間の類型学」は主題的に取り上げられています。

また、わたし自身もまた、本講座のはじめのあたり(2回および3回)でこの問題を扱っています。

『情然の哲学』では、シェーラーが提示した五つの類型を三つにまとめることで、よりすっきりとした整理の仕方になっていますが、世界平和の問題について考える場合、「三種の世界観」に関する理解がどうしても必要になるので、ここで著者の見解を確認しておきましょう。

まずは、次の箇所を読んでみてください。

古代において初めて主流となったのは「ギリシャ的世界観・人間観」であった。その次に来るのが「キリスト教的世界観・人間観」。その源流はキリスト教以前のユダヤ教(古代イスラエル)にあるが、世界に影響を与えるようになったのは、やはりキリスト教がローマ帝国の国教となった四世紀以降のことになる。そして十九世紀、急速に発展した科学を背景に、宗教や道徳的な考えとは全く異なる思想が現れる。即ち「自然科学的、唯物論的世界観・人間観」である。
これら三種の人間観は、それぞれ人間の心の機能である「知・情・意」のどこに重きを置いているかという違いとして見ることもできる。いずれも今なお現代社会に大きな影響を与えている思想である。(『情然の哲学』p267〜p268)

筆者はこのあとそれぞれの世界観について説明していますが、それらを引用すると長くなってしまうので、わたしのほうで簡単にまとめておきましょう(ただし、キリスト教の世界観については「情然の哲学」のそれと重なるところが多いので、ここでは省略します。)

はじめに、ギリシャ的世界観について。

これは簡単に言うと、人間の理性によって世界を把握しようとする態度のことです。そのため、ここでは、ホモ・サピエンスという概念が登場します。人類の哲学の営為は遠い昔、古代ギリシャの時代からはじまっていますが、たしかにわたしたちは理性がなくては人間らしく暮らしていくことができないので、このような人間観は現在に至るまで有効です。

ギリシャ哲学の流れは中世に入ってからキリスト教神学の陰に隠れることになりますが(スコラ哲学と呼ばれるものです)、デカルトの登場により近代哲学として復活します。デカルトは「われ」という自己意識の存在を最も確実なものと考え、そこに新たな哲学の出発点を見出しました。哲学を神学から独立させることで、人間の理性を軸とする新たな思索の道が可能になったわけです。

世界の成り立ちを理性によって解明しようとする態度は、科学を生み出す源泉にもなりました。古代ギリシャにおいて隆盛した自然哲学は、「はじめにあったものとは何か」という問題意識に基づく探索でしたから、人類にはもともと科学を生み出すだけの潜在能力があったと言えます(このような能力がなぜ人間にだけあるのかということについて考えるのも、人間学の課題です。)

自然界の仕組みや本質を知りたいという欲求は科学を芽生えさせ、科学はやがて哲学から独立して発展していきます。ここでは、宗教(キリスト教)も哲学も科学も西洋という特定の地域で発祥したものである点に留意しておきましょう。

科学的な知見によって自然界を利用する方法を見出した西洋では、やがて産業革命が起こるようになります。さまざまな機械が発明されることで大規模な工場が出現し、生産力が飛躍的に向上する一方で、労働問題などが起こるようになります。労働者が資本家に酷使され、重労働に苦しむという問題です。そして、産業の近代化にともなって発生したこの問題が、後年、マルクスが『資本論』を書くことになる主要な要因になります。

次に、唯物論的な世界観について。

神学から独立した哲学の分野では、デカルトのあと、大陸の合理論とイギリスの経験論を統合する哲学者があらわれ(これがカントです)、ドイツ観念論の流れが形成されます。この流れからヘーゲルが登場しますが、かれの哲学は近代哲学の集大成という性格をもっています。デカルトによって出発した近代哲学は、ヘーゲルによって大成されたわけです。

ヘーゲルは絶対精神という概念を用いて壮大な世界観を構築しましたが、かれの思想の背後にあったものはキリスト教でした。哲学が神学から独立したとはいえ、それが西洋という風土のなかで培養されたものである限りにおいて、やはりキリスト教の影響から完全に抜け出ることはありませんでした。

ところがヘーゲル以後、哲学は興味深い展開を示すことになります。ヘーゲル以後の哲学は一般に現代哲学と呼ばれますが、後代の哲学者たちはヘーゲルの哲学をさまざまに批判することで、新しい問題意識を内包したより現代的な哲学を提示したのです。

具体的に言うと、フッサールの現象学や、キルケゴールの実存主義や、マルクスの共産主義思想などです。

人々の人生に影響を与える世界観の形成という観点から見た場合、なかでもとくに重要な出来事は、やはりカール・マルクス(1818〜1883)の登場でしょう。
マルクスはヘーゲルの弁証法から観念的な要素を抜き取り、階級闘争があたかも歴史の必然であるかのような正当化を試みました。いわゆる、唯物史観というものです。ヘーゲルやマルクスの哲学そのものの解説はここではしませんが、マルクスはヘーゲルの哲学を裏返すことによって、「運動する物質」を「神」の位置に置き換えた新しい世界観を構築することになります。

こうして、キリスト教の世界観を根本的に転覆させる世界観が、マルクスによって提示されることになったわけです。

これがいわゆる、共産主義思想(唯物論的世界観)というものです。

キリスト教の経典は『聖書』ですが、共産主義の経典は『資本論』です。キリスト教には、「キリストによる罪からの解放」という理念がありますが、共産主義には、「革命による労働者たちの解放」という理念があります。どちらもその構造には類似点があり、共産主義はキリスト教とは真逆の「唯物論信仰」であるともいえるでしょう。

結局、共産主義はキリスト教の「鬼っ子」として世に出ることになったわけです。

実際、共産主義は、その発生の当初からキリスト教を目の敵にしていた歴史があります。マルクスはもともとユダヤ教の家系に生まれたひとでしたが(かれの先祖は代々ユダヤ教のラビでした)、マルクスがまだ幼い頃、家族がキリスト教に改宗するという事件が起こります。キリスト教の素晴らしさに触れて心から改宗したというよりも、ユダヤ教徒のままでいるとなにかと肩身が狭いから、という理由だったようです。

ですから、マルクスにとってキリスト教は憎むべきものでした。

共産主義の思想のなかには抑圧や疎外という概念がありますが、これらの概念は、かれにとって実感を伴うものだったのでしょう。

そんな状態ですから、このままでは世界観の統合はおろか、それぞれの陣営の有力者たちが対話の機会を持つことすらできません。みんなが協力しあって平和な世界を築きあげていくことなど、夢のまた夢という状態にあるわけです。

とりわけ、アメリカ(キリスト教)と中国(共産主義)の対立などは、先行きのまったく見えないとても大きな問題ですね。
 
しかしながら、改めて冷静に考えてみるなら、この世界は一つのものであると考えることもできます。

一つの世界に、三つの世界観。

これはいったい、どういうことなのでしょうか。

一つの世界に生きているはずのわたしたちが、どうして三つの世界観を持つようになり、たがいに争い合っているのでしょうか。

誰もが一度は心に抱くであろうこのような疑問について、もう少し掘り下げて考えてみましょう。

世界観をめぐる三つの立場


ここからはわたし個人の見解になりますが、ひとが世界の根源について考える場合、そこには必然的に三つの立場が生まれるようになります。

一つ目は、この世界は偶然に生まれた、というもの。二つ目は、この世界は必然的に生まれた、というもの。三つ目は、偶然であれ必然であれ、人間は世界が生まれた原因についてその真相を知ることはできない、というもの。

一つ目の立場は、唯物論。二つ目の立場は、神の創造論。そして三つ目の立場は、不可知論というものです。

原理的に考えてみても、世界の発生は、偶然か必然かのどちらかであり、それ以外の可能性はありません。なぜかというと、わたしたちは物事の発生の原因について考えるとき、「偶然」と「必然」以外の概念を持ち合わせていないからです。

ですから、世界の発生について考える立場としては、偶然説、必然説、不可知論説、という三つの選択肢しかないわけですね。

そして、偶然説の陣営は共産主義の思想としてまとまり、必然説の陣営はキリスト教の思想としてまとまり、また不可知論説の陣営の人たちは、哲学的もしくは科学的な探求を今なおエンドレスに続けているわけです。

ごく大雑把に捉えてみると、「世界観の三つの類型」はこのようなものになると考えられます。

ここで、少し話題を変えて「知識人の苦悩」という問題について考えてみましょう。

昔から知識人の肖像画というものは、とてもいかめしいものになっているのが通例です。高校の「倫理」の教科書に掲載されているヘーゲルの顔などを見ても、このことはよくわかりますね。にこやかな笑顔で仕事に励んでいるヘーゲルなど、ちょっと想像できません。かれら知識人たちはみな、ああでもないこうでもないといった出口のない思索の生活を続けているため、どうしても暗い表情になってしまうのでしょう。

『出口なし』という戯曲を書いたサルトルもまた、教科書に出ているのはいかめしい顔がほとんどですが、ここで留意しておきたいのは、わたしたちがどのような世界観を信ずる(もしくは支持する)にしても、そこに「出口はない」ということです。

共産主義の思想を信じた場合には、世界的な規模で共産革命が起こらないかぎり搾取のない平等な世の中が訪れることはない、ということになります。また、キリスト教の思想を信じた場合には、イエス・キリストが天から降りてこないかぎり(これをイエスの再臨といいます)「神の国」がこの地上にあらわれることはない、ということになります。それから、不可知論の陣営では「アルケー」の問題はもとより迷宮入りの状態ですから、探求を続ける科学者や哲学者たちは、何かの未来像を思い描くことすらできません。

いずれにしても、未来に大きな希望を抱くことができるような世界観を、現在のわたしたちは持ち合わせていないというのが現状です。

そのため、歴代の知識人たちはみな、申し合わせたようにいかめしい顔をしているのです。

ところが、『情然の哲学』では、これまでわたしたちが見てきたような三つの世界観のほかに、第四の世界観と言うべきものを提示しています。

それがすなわち、「情然の哲学の世界観」というものです。

第四の世界観の登場


では、「情然の哲学」の世界観とはどのようなものでしょうか。

それは本当に、わたしたちに大きな希望を与えてくれる世界観なのでしょうか。
知識人たちが明るい顔をしながら言論活動に勤しむような、そんな新しい時代が、「第四の世界観」の登場によって本当にやってくるものなのでしょうか。

このあたりの問題について検討してみることにしましょう。

まずは、『情然の哲学』の本文を確認します。

情然の哲学は宇宙の本体を情然であるとしている。あらゆる存在の前に情然のゆらぎがあった。そしてそれは今この瞬間もすべての存在を底流で支えている根源的エネルギーである。
情然の場は、物理学的には真空エネルギー場と捉えられる。それが単なる無機質な運動ではなく、原クオリアを伴ったものであるという観点から「情」という言葉を使用している。それは私たちが通常意識する「感情」と同じものではない。知・情・意に分化する前の原初的な精神的エネルギーであり、これまで繰り返し述べてきたように、理性も、そして物質も、そこから生まれることになる文字通り一元的な根源である。
情然は、人間の意識の中では知・情・意という心の機能として現れる。「情」は感じる心であり、「知」は考える心である。「意」は情と知の相互作用によって生じる欲求であり、自らを目的や理想に向かって進めようとする力となる。本来的にはそれぞれ調和的な関係であり、そこに対立や闘争があるとすれば、それはむしろ病的あるいは未熟な状態と言わざるを得ない。しかし実際はほとんどの人が本来の人間性を確立できずにいるというのが現実ではある。キリスト教では原罪を負った罪人であり、仏教では煩悩の囚人ということだ。それゆえに「原罪からの救済」や「煩悩からの解脱」など、本来の状態に戻ろうとする修行や信仰的・道徳的生活は、その方法の是非は別として大切なことであり、情然の哲学では、それは知・情・意の調和的なバランスを取り戻すアプローチであると考える。
右図(省略)にあるように情然の哲学の世界観や人間観は、結果的に先に挙げた三種の人間観を補完的に統合したものになっている。(『情然の哲学』p273〜275)

新しい世界観についてのじつに見事な解説であると思います。

「結果的に先に挙げた三種の人間観を補完的に統合したものになっている」というくだりも、とても希望的かつ建設的です。

わたしのほうでは、なぜ「情然の哲学」が新しい世界観なのかということについて、次の二点を指摘しておきましょう。

  •   アルケーの問題について明確な回答を提示したこと。
  •  ヘーゲルの弁証法に対し根本的な訂正を提案したこと。


この二点について若干の説明をしておきます。

先に引用した箇所にもあるように、「情然」という概念は非科学的なものではありません。科学そのものではありませんが、現代科学の知見に反するものでもないのです。強いて言うなら、「情然」という発想は、科学と哲学と宗教を超えた次元のある特別な直感によって生まれ出た、と言うべきものかもしれません。

そのため、「情然の哲学」は、科学的でもあり、哲学的でもあり、宗教的でもあるのです。

それからもう一つ。

「情然」とは、「情が情のままにある状態」ですから、わたしたち人間にとって決して「不可知のもの」ではないということです。

たとえば、「霊」や「魂」という用語にはつねにある種の曖昧さがつきまといますが、「情」にはそうしたとらえどころのないイメージはありません。なぜかというと、わたしたちは日々の生活において、つねに何かしらの「情」を心の中に宿らせながら生きているからです。

うれしいとか、悲しいとか、せつないとか、やるせないとか、腹立たしいとか、うしろめたいとか、そのような「情」を経験したことのない人はおそらくいないでしょう。

そのため、「情然の哲学」においては、わたしたち人間は宇宙の本体と直接的に結びついていることになるのです。

宇宙における人間の位置をかつてないほど高めたものであるために、わたしはこの思想、この世界観に対して大きな希望を持っているわけですね。

次に、「情然の哲学」における発展の法則について説明します。

この法則について考えるときには、三世代家族のモデルを思い浮かべてみるのがよいでしょう。

三世代家族のなかには、祖父母と父母と子女がいます。時間的に見ると、三世代家族は二世代家族の発展形態であり、空間的に見ると、子供たちがそれぞれ家庭をもつことで家族が氏族に発展することになります。

個人から家庭へ、家庭から氏族へ、氏族から民族へ、民族から国家へ、国家から世界へという発展形態は、ヘーゲルが言うような「正・反・合」の原理(弁証法)によってなされるのではなく、「正・極・昇合」の原理によってなされるのではないでしょうか。

「家族的四位構造」(これについてはこれまで何度か説明してきました)はそれ自体のなかに「正・極・昇合」の関係性をもっているので、存在するものはすべて、自らのアイデンティティを保持しながら次の段階に発展することができるのです。

そしてそこにあるのは、「正と反」の闘争の関係ではなく、「正から分かれた二つの極」の互恵の関係だというわけです。

平和な状態(互恵的関係)を維持しつつ望ましい発展をしていく、というのが、「情然の哲学」の世界観だと考えてもらえればよいでしょう。

男性と女性が愛し合って新しい家庭をつくるというのも、わたしたちに身近な実例ですね(そして聖書によれば、これこそがまさに神の祝福です。)

ヘーゲルやマルクスの弁証法は知識人の世界観にも多大な影響を与えてきており、闘争の現実が闘争の世界観をつくり出し、そしてまた闘争の世界観が新たな闘争の現実を生み出してしまうという悪循環が、人類の歴史において繰り返されてきました。

そのような負のスパイラルから抜け出すために生まれた新しい思想が、「情然の哲学」だというわけです。

「正・極・昇合」の法則については『情然の哲学』の4章と5章に詳しい解説があるので、関心をお持ちの方は直接原典にあたって確認してみてください。
ちなみに、ここでいう「昇合」は、「昇華」と「融合」の概念を組み合わせてつくった造語です。

新しい世界観を表現するために、新しいことばが必要になったのでしょう。

では、今回の話はこのへんで。

23回


今回は『情然の哲学』第8章の解説です。

この章のタイトルは、日本の使命と役割。サブタイトルは、「和」と「道」が織り成す日本文化、というもの。

一見してわかるように、この章もまた前章と同じく、とても大きなテーマについての論議になっています。

ただし、この章は、この著作の核心的なテーマからはやや外れるため、章のページ数も9ページと少なく、日本文化の特質についての簡単な叙述にとどまっています。

とはいえ、わたしが思うに、この章の内容はとても重要なもので、日本文化の特異性については、やはりこの章においてどうしても語られるべきものであったと思われます。

「情然の哲学」のような大きな思想は、決して個人の力だけによって生まれるものではなく、そのような思想を可能にした文化的な土壌というものがあるはずだからです。

そのため、今回は、このあたりの問題について少し掘り下げて考えてみることにしましょう。

「和」と「道」の文化


近年の日本はおおむね、この国を訪れる外国人からさまざまな賞賛を受けることが多いようですが、かれら外国人が異口同音に言うのは、日本には伝統的な文化と先進的な文明が矛盾なく共存している、という点です。

たとえば、新幹線などがそのよい例かもしれません。

高速鉄道はほかの国にももちろんありますが、外国人からすると、新幹線はそのなかでも抜きん出た存在であるようです。

かつては、先進国といえばアメリカやヨーロッパの国々でしたが、最近では、欧米諸国の人たちがこの列車に乗っても驚くというのです。

速度が出るというだけではありません。高速でありながら静かで乗り心地がいいし、車内はいたって清潔。運行時間も正確で、トイレなどの設備も、使いやすくて快適。また、駅や車内で販売されているお弁当なども、種類が豊富でとてもおいしい。

至れり尽くせりというわけですね。

しかも、日本人はみなマナーが良く、列車の到着を待つときもプラットフォームに整然と並んで人に迷惑をかけることがない。

それから、これは笑い話ですが、電車の走行が静かすぎるため、「この列車、いつまで停車してるの?」と怒り出す外国人もいるとのこと。

「われわれは、いつの間にこれほど差をつけられてしまったのか」

かれらの称賛のなかにはこんな羨望の思いも混じっているようですが、日本人がこんな日本の状態を(すなわち現在の日本の文化と文明を)「当たり前」と思っているところにも、外国人は衝撃を受けるようです。

とりわけ、中国や韓国を旅行したあとで日本を訪問すると、ほとんどの人は想定外のカルチャーショックを受けるといいます。

「同じアジアなのに、なぜ?」という驚きですね。

また、中国や韓国の人たちは若い頃から反日教育を受けていますから、「日本は悪い国・劣った国」という先入観をもっている人も多く、そんな人であればあるほど、現実の日本を見たときのカルチャーショックは劇的なものになります。

YouTubeなどの投稿動画により、日本の風景や人々の暮らしぶりなどが世界に紹介されるようになったおかげで、「ぜひ実物に触れてみたい」という熱い思いで、最近は世界中の人々が日本を訪れるようになりました。

そうすると、ユーチューバーたちは、「日本のどんなところが気に入りましたか」とか、「どんなところに驚きましたか」などといった質問をかれらに投げかけます。

かれらの答えは、みなほぼ同じです。

日本は治安がいい。日本は清潔だ。日本の都会はまるで未来都市のようだ。日本の古都はおもむき深い。日本人は礼儀正しくて親切だ。日本の食べ物はとてもおいしい。日本のアニメは最高だ。日本のコンビニはすごい。などなど。

どうやら日本の文化は、その魅力によっていまや世界の人々を巻き込みつつあるようです。

たしかに、わたしたち日本人は、現在、外国人に驚かれるような文化と文明のなかに生きています。

そのことは実際、たとえば東京や京都の街を歩いてみるだけでもよくわかります。

『情然の哲学』では、このような日本の文化に対し、「和」と「道」の観点から分析を試みていますが、「和」を横軸、「道」を縦軸と捉えるあたり、わたしたち日本人にもある種の驚きを与えるような内容になっています。

分析というとなんだか冷たい響きがありますが、そこには実際に日本で暮らしてみないとわからないような洞察もあり、実感に富んだ日本文化論になっているところも見逃せません。

では、本文を少し読んでみましょう。

「和」と「道」という二つの軸と共に、「つながり」と「ゆらぎ」も、日本文化の根底に流れる特徴的な言葉である。これは情然の哲学をつらぬく重要な概念「関係性」と「ゆらぎ」にそのまま直結している。著名な日本文化研究家・松岡正剛(1944〜)は、著書『日本という方法 ― おもかげ・うつろいの文化』の中で、日本的なるものを括るキーワードとして「おもかげ」と「うつろい」を挙げている。これもまた「つながり」「ゆらぎ」と深い関係にあるように思える。
「おもかげ」は、「私」と、「あなた(あるいは誰か)」や「ふるさと」などの対象との間(つながり・関係性)に立ち現れるイメージのようなもの ― いや、イメージは自分の心の中の「像」であるのに対して、「おもかげ」は、どことなく「私とあなた(対象)との間」にゆらぐ実体的な存在であるかのようなニュアンスがある。イメージは「慕う」ことができないけれど、「おもかげ」は慕うことができる。孫を見て「おじいちゃんの面影が残っている」という場合も、「おもかげ」は、「私の中」だけにあるのではなく、その孫の中にこそあるものとして捉えられている。さらに深く考えれば「祖父と私と孫(あるいは親族一同)」の関係性の中で共有されている「心的存在」のようなものであるともいえる。

イメージは「慕う」ことができないけれど、「おもかげ」は慕うことができる。

じつにみごとな洞察です。この一文があることによって、『情然の哲学』の日本文化論は、他の凡百の文化論とは一線を画したものになっているように思えます。

また、「慕う」ということば自体、ラブということばとは置き換えることのできない、何かしら深く実存的な情の世界を含意した概念であるように思えます。

「イメージ」と「おもかげ」の違い、あるいは「ラブ」と「慕う」の違いなどは、西洋文化と日本文化の違いを端的に照射するものとして注目すべきでしょう。

日本語の構造と存在の構造


日本語は、人称代名詞や敬語などが非常に発達している言語ですが、ここで少し、ことばの問題について考えてみることにしましょう。

『情然の哲学』第8章の最後の小見出しは、「日本語に表れる日本人の感性」というものです。

「おかげさま」「おたがいさま」「いただきます」「ごちそうさま」などは、日本人にとってはごく当たり前のことばですが、これらを外国語に翻訳することはとても難しいとされています。

これらのことばは、日本文化のなかから生まれてきたものだからです。

たしかに、日本語は難しい、という声はよく聞きますね。

日本語のなかには、漢字とひらがなとカタカナがあります。そして、漢字には音読みと訓読みがあります。和語と漢語と外来語が入り混じって調和し、一つの文章を形成しているため、外国人にとっては難解な言語のように思えるのでしょう。

たとえば、中国語には漢字しかないし、韓国語にはハングル文字しかありません。また、英語にはアルファベットしかありません。ですから、漢字やひらがなという異種の文字体系が一つの文章のなかに共存しているのは、それだけでも不思議な言語のように思われるわけです。

不思議なのは、それだけではありません。

これはわたしたち日本人もあまり気づいていない事柄のようですが、実のところ、日本語の構造は「存在の構造」ととてもよく似ているのです。

存在の構造とは、「情然の哲学」が明らかにしたように、「家族的四位構造」のことです。

わたしたち人間は、親子軸と男女軸が垂直に交差する場所のなかに存在していますが(男女の親から生まれてこない人間はいないし男でも女でもない人間はいないということです)、「情然の哲学」によれば、次元の違いはあるにせよ、この「家族的四位構造」の存在法則と無関係に存在している存在物はひとつもありません。

では、果たして、わたしたちの母語である日本語のなかにも、「家族的四位構造」はあるのでしょうか。

当然、あることになります。

では、日本語における親子軸と男女軸とはいったい何なのでしょうか。

それは、漢字とひらがながつくり出している縦軸と横軸の関係です。

ご存知のように、ひらがなは漢字から生まれています。古くから音声言語として存在していた日本語を表記するために、日本人は漢字、すなわち中国から輸入した文字を素材として日本独特の文字を発明しています。

そのため、漢字とひらがなは「親子軸」を形成しているのです。

親子軸を「縦軸」とすれば、それと一体不可分のものとして「横軸」がなければなりません。なぜなら、「縦」という概念が成立するためには「横」という概念が必要だからです。

では、漢字とひらがなは、親子軸であると同時に男女軸でもあるのでしょうか。

平安時代の日本において、ひらがなの担い手はおもに女性でした。そのため、娘を失った悲しみを吐露するためにひらがなを用いた日記を書こうとした紀貫之(871?〜946?)は、その日記のなかで自身を女性に仮託しました。

土佐日記(935?)の冒頭にある次の一文は、有名ですね。

「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」
(男の書くという日記というものを、女である私も書いてみようと思って、書くのである)

当時はまだ日記文学というものは存在せず、日記と言えば、男性貴族が漢文で綴った公的な日記(業務日誌のようなもの)がほとんどでした(私的な日記もあるにはありましたが、それもやはり漢文体でした)。しかし漢文の日記では、自分の心のうちを表白することができません。そこで貫之は、当時としてはまだできたての和文で日記を書こうとしたわけです。

このような歴史の事実を振り返ってみるだけでも、漢字は男性格、ひらがなは女性格であることがわかります。したがって、漢字とひらがなは男女軸をも形成しているのです。

日本の文化のなかにも「道」と「和」という縦横の軸があり、また日本語のなかにも漢字とひらがなという縦横の軸がある。

『情然の哲学』が日本文化の土壌のなかから生まれ、その原著が日本語によって書かれているというのも、決して偶然のことではないようにわたしには思えます。

では、今回の話はこのへんで。

24回


わたしはこれまで、数回にわたって『情然の哲学』の思想について語ってきましたが、前回までの話でそれにも一区切りがついたので、今回は、この思想についての総まとめの話をしようと思います。

人間学の話をするために、どうして「情然の哲学」の思想を紹介する必要があったのかというと、「人間」について考えるためには、「人間界」のみならず、「自然界」と「超自然界」のありさまについても考えなければならないと思ったからです(超自然界とは何かということについてはのちほど説明します)。

「情然の哲学」は、人間の存在について考える際に、いくつかのとても有効な視点をわたしたちに提供してくれています。

それはたとえば、世界の根源(アルケー)の問題に対する視点であったり、弁証法の問題(発展法則の問題)に対する視点であったり、ハイデガーやサルトルが提起した「即自」と「対自」の問題(人間の実存の問題)に対する視点であったり、人間の心の問題に対する視点であったり、人間の家庭や社会の問題に対する視点であったり、人間が普遍的にもっている幸福への欲求の問題に対する視点であったり、といったものです。

『情然の哲学』はこれらの問題に対し、章ごとにテーマを設定しながら論議を進めているため、わたしもこれまで、おおむね、それぞれの章ごとにその内容を解説してきました。

いまのわたしたちは、『情然の哲学』の全体を俯瞰できるところまで来ていますから、ここで改めて、この思想がわたしたちに与えてくれた「新しい世界観」についてまとめておきましょう。

キリスト教と共産主義


『情然の哲学』を一つの思想書として見た場合、そこには一つの際立った特徴が見て取れます。

これまでにもこの世界を解釈する「大きな物語」はいくつかあらわれており、その良い面だけに目を向けると、それらの思想は人々の心のよりどころとなってきました。

たとえばそれは、キリスト教の思想や共産主義の思想などです。

周知のように、アメリカの建国精神にはキリスト教があるし、中華人民共和国の建国の理念には共産主義があります。

今世紀に入ってから、この二つの国の対立はますます深刻なものになっていますが、それぞれの思想がそもそも統合不能のものですから、当然と言えば当然です。

「アルケー」の観点から見てみると、キリスト教はアルケーを「神」とする思想であり、共産主義はそれを「物質」とする思想です。

キリスト教の思想では、神は「無」から万物を創造したことになっているし、共産主義の思想では、「神」は人間の頭の中にある観念に過ぎない、ということになっています。

そのため、この二つの「大きな物語」は、その始発点と終着点がまったく別のものになっているのです。

ところで、この二つの思想がなぜ「大きな物語」なのかというと、そこには、(それが正しいかどうかはともかく)世界の始まりから終わり(理想的な世界の実現)に至るまでのビジョンが描き出されているからです。

世界はかくあるべきもの、というビジョンを提示した思想は、かならず熱心な支持者、もしくは信奉者を生み出すことになります。

たとえば、キリスト教思想はクリスチャンを生み出しているし、共産主義思想は左翼活動家を生み出していますね。

もちろん、信教・思想の自由は憲法で保障されていますから、そのこと自体は個人の自由の範囲内にあることです。

ところが、世界観の対立の問題は、正義論や平和論の問題にも関わるとても厄介な問題です。

この問題を野放しにしておくと、ひとは往々にして喧嘩をはじめてしまうのです(というよりもすでに長いあいだ喧嘩の状態にあります)。

個人と個人の喧嘩であるならば、まぁ、ほうっておいてもいいでしょう。

ところがそれが、国と国の喧嘩になった場合、世の中はどうなってしまうでしょうか。

わたしがこの二つの思想の対立にこだわるのは、アメリカと中国の関係が現在、非常に危険な状態にあるからです。

戦争など、起こしてもらいたくない。

もちろん、誰もがそう思いますよね。

もしもアメリカと中国が軍事力を行使するようになれば、日本も無傷ではいられないでしょう。

この二つの大国が戦火を交えた場合、それを傍観していられる国などどこにもありません。

ですから、この二つの「大きな物語」の対立の問題は、人類にとって看過できない重大なことがらなのです。

対立に満ちた世界


では、ここでもう少し、イデオロギーの対立という問題に関して考察を深めてみましょう。

現在、アメリカと中国が対立していることは明らかです。それぞれの首脳が会談をするときは、はじめに笑顔で握手をしますが、だからといって、両者の仲がいいわけではありません。

政治という表舞台の裏側で、世界の国々はそれぞれ粛々と軍備を増強しており、その理由はというと、もちろんそれは、万が一の事態、すなわち戦争に備えるためです。自分たちは戦争をするつもりはないが、攻められると困る、という理由で、それぞれの国が防衛のために軍備を増強しているのです。

ということは結局、人類の思想はいまだに「最後はやはり戦争だ」というパラダイムから抜け出せていないのであり、そのことのために、世界の軍事情勢は今もなお緊迫した状況にあるのです。

そして、そのような事態になってしまった根本の原因は、やはり、「対立する二つの大きな物語が閉じられた構造になっているから」と考えるのが妥当でしょう。

簡単に言うと、クリスチャンは共産主義者を容認することができないし、また、共産主義者はクリスチャンを容認することができません。もちろん、かれらが露骨にこうした排他性を公言することはありませんが、本音の部分では、やはり決して容認してはいないのです。

では、国と国の間にどうしてこのような対立が生まれ、あわや世界戦争、というところまで発展してしまったのでしょうか。

そこにはやはり、「アルケーの問題」があるのではないかとわたしは考えています。

たとえば、共産主義においては、世界の根源は「物」なので、物以外のものは物から派生したものであり、物の法則(これは物理法則とは若干ニュアンスが違います)の支配を受けるものとなります。

そうした世界観に立つならば、たとえば、「心」や「精神」や「霊」や「魂」や「神」などは、二次的な派生物になります。つまり、その時点ですでに、物質世界を優位とする排除の論理が働くようになるのです。

また、キリスト教の思想においても、「アルケー」を「神」と定義した途端、宗教に特有の排除の論理が働いてしまいます。

たとえばそれは、「わたしは信者だから救われるけれども、あなたは信者ではないので救われません」という論理です。

とりわけ、キリスト教のような一神教において、こうした排除の論理は顕著です。

もちろん、表立ってこんなことを言うひとはいないけれども、どの宗教にもやはり、「信仰義認」というものはあります。

ですから、宗教間においても、特定の教団に所属する信者のひとたちはおおむね、他教団の信者さんとは仲が悪いのです。

世界は対立に満ちている。

世の中のこのような現状は、大人たちだけでなく、子供たちだって気づいているはずです。

とするならば、「迷路の時代」(価値観が多様化して社会全体が混沌としている時代)に生きているわたしたちが願っているのは、やはり、万人に対して開かれた思想の登場、ということになります。

わたしがこんなことを言うと、「それはそうだが、そんな思想がいったいどこにあるんだ」という声が、どこからか聞こえてきそうです。

そうですよね。

実はわたしも、ずっとそう思っていました。

排他性をまったくもたない思想なんて、ありえない、と。

ところが、です。

幸運にもわたしは、偶然、「排他的な構造をもたない思想」というものに出会ってしまったのです。

しかもそれは、これまでにあらわれた「大きな物語」と比べてみても、遜色のないほど深くて広い思想だったのです。

それが、ほかならぬ、「情然の哲学」というものでした。

「情然の哲学」の特徴


ここで、話を最初の部分に戻しましょう。

今回の講座のはじめの部分で、わたしは、「情然の哲学という思想には一つの大きな特徴がある」と話しました。

その特徴を簡単に言うならば、「世界に向かって開かれた構造をもつ思想」ということです。

キリスト教や共産主義が、「こうでなければならない」という閉じられた構造によって成立しているのに対し、「情然の哲学」には、そのような排他性がないのです。

これは、驚くべきことがらです。

では、どうしてこのような思想が、21世紀になってから出現したのでしょうか。

わたしなりの答えを言いましょう。

それは、日本の文明が、西欧世界のそれを超えてしまったからです。

西洋の哲学は、古代ギリシアにおいて発祥しています。

その地において芽生えた自然哲学は、アルケーとは何かという問題をメインテーマにしていました。

もちろん、その問題は未解決のまま時代が流れ、近代に入ってから、問題の追求は科学者たちの手に委ねられることになりました。

ところが、西洋の歴史において、宗教と哲学と科学はそれぞれ分離しながら発展してきたため、アルケーの問題を探究する知の分野そのものが居場所を失くしてしまい、あたかもそれは、「古い時代の問題」であるかのように扱われるものになってしまいました。

ポストモダンの風潮が、こうした状況を加速させたのは言うまでもありません。

ところが、問題は何一つ解決してはいないのであり、たとえば、今の時代の哲学界の碩学に、「世界の根源は何だと思いますか」と尋ねてみても、納得のいくような答えは返ってこないでしょう。

「アルケー=情然」という等式を発見したのは、わたしたち日本人です。

大げさな言い方のように思われるかもしれませんが、この等式が発見されることで、二千数百年におよぶ哲学の歴史がひっくり返ってしまいました。

なぜなら、この思想によると、世界の根源は「物」でもなく「神」でもないのですから。

『情然の哲学』の中身についての解説は、これまで数回にわたって行ってきたので、ここでそれを繰り返す必要はないでしょう。

念のため、ごく簡単に確認しておくと、共産主義とキリスト教には、アルケーの定義について大きな難点があります。

共産主義では、「アルケー=物」ということになっていますが、今の科学者たちがこの等式を見るならば、かれらはこれを見た瞬間に目を丸くし、そして失笑してしまうでしょう。

なぜならこの等式は、今ではもう時代遅れのものになってしまっているからです。

マルクスが生きていた時代には、この等式はたしかに、多くの人々を納得させるだけの力があったかもしれません。

ところが、それははるか昔、19世紀の頃の話です。

量子力学がすでに100年の歴史を持っている今日において、「世界の根源はモノだと思う」などと真面目な顔で公言することは、少なくともこのわたしには、とてもではありませんが恥ずかしくてできません。

ですからわたしは、唯物論に立脚した共産主義の思想を支持しないのです。

では、キリスト教のほうはどうでしょうか。

「アルケー=神」と定義した場合、当然のことながら、「神って何?」という疑問が心の中に湧いてくることでしょう。

もちろん、その疑問について明確に答えてくれるような神学がもしもあるとすれば、わたしはその教えに帰依してもいいと思います。しかしながら、そのような神学というものは、どうやらこの世界には存在しないようなのです。

ただし、「神がこの世界を創造した」という命題に関しては、わたしはそれを否定するつもりはありません。

なぜなら、「情然の哲学」に登場する「原初格」という概念を「神」と解釈すれば、この命題は正しいことになるからです。

では、「アルケー=情然」と定義した場合、その後の思考はどうなるでしょうか。

当然、「情然とは何か」という疑問が心の中に湧いてくることになりますね。

「情然の哲学」によれば、「情然」とは、「情が情のままにある状態」というものです(もっともこれはわたしの解釈であって『情然の哲学』のなかにこのような説明があるわけではありません)。

「情が情のままにある状態」とは、そのなかに「知」や「意」を含まない「情」の状態を意味しますが(わたしはこれを純粋感情と呼んでいます)、このあたりの話になると、完全に哲学の領域になります。

つまり、「人間界」でも「自然界」でもない、「超自然界」の話になるわけです。

ところが、「超自然界」の話ではあっても、それはわたしたちにとって雲をつかむようなものではありません。

なぜなら、「情が情のままにある状態」から「原初の心」が誕生し、その「心」が成長して「神」になった、とわたしは考えているからです。

ちなみに、「情然の哲学」では、「心」についてのわかりやすい説明があります。「情」と「知」は「心」の両極であり、この二つの極がたがいに作用することで「意」が生まれる、という説明です。

実にシンプルで美しく、そしてわかりやすい命題だと思います。

ですから、結局、「情とは何か」という問題が最後に残ることになるわけですが、「情」はわたしたちにとって、「神」のような漠然とした概念ではありません。

なぜなら、喜怒哀楽の感情を一度も経験したことのない人間は、おそらく一人もいないだろうからです。

このあたりで、今回の話をまとめておきましょう。

「情然の哲学」を思想的な側面から見た場合、世界の根源には人間の心を誕生せしめた「親」としての「心」があり、その、「神」とも名付けられ得る「原初の心」は「情然」から生まれている、という画期的な世界観が導き出されます。

そのため、「人間界」と「自然界」と「超自然界」は三位一体の関係になるわけですね。

であるとすれば、わたしたち人間は世界の中心に位置する存在なのです。また、人間にとってなくてはならない自然界は、わたしたち人類にその管理を任されたものなのです。

このような卓抜な洞察は、西洋の文明を超えることのできた日本人ならではのものだとわたしは思いますが、読者のみなさんは、どのような感想をお持ちでしょうか。

では、今回の話はこのへんで。

25回


本講座も25回になりました。

「情然の哲学」については前回までの講座でほぼ語り切れたように思うので、今回から新しい内容に入ります。

新しい内容といっても、これまでの話の流れと別の話をするわけではありません。

むしろ、一旦以前のテーマに戻り、あらためて「人間」について考えることが今回以後の講座の趣旨となります。

わたしはこの講座で、はじめに菅野楯樹氏の『人間学とは何か』を取り上げましたが、そこで語られている人間学の解説を途中で切り上げ、『情然の哲学』の話をはじめています。

なぜそうしたのかというと、そこに、わたし自身の人間学研究のテーマがあったからです。

菅野氏の『人間学とは何か』は、文字どおり、人間学の何たるかをわたしたちに教えてくれるすぐれた書物ですが、わたしにとってそれは、信頼できる先行研究ではあっても、研究のテーマそのものではありません。

もしもわたしのテーマが菅野氏の著作に全面的に依拠したものであるとすれば、わたしのこの講座は『人間学とは何か』の解説講座に終わることでしょう。

しかし、それではあまり面白くありませんね。

「人間学の現在」というからには、人間学の「現在」に関する、何かしら新しい知見がそこに含まれていなければなりません。

その新しい知見というのが、わたしの場合、「情然の哲学」だったわけです。

ただし、「情然の哲学」は人間学というよりも哲学です。

わたしがたまたま出会ったこの哲学は、人間学の未来を切り拓く基礎理論にもなり得るものだったので、この哲学を土台としながら新たな人間学を構築することはできないだろうか、とわたしは思い、そこに自身の研究テーマを見出していたのでした。

そしてそのテーマは、いまのわたしにも現在進行形のものなので、わたしはこの講座のタイトルを「人間学の現在」としたわけです。

そのため、わたしがこの講座のなかで『人間学とは何か』と『情然の哲学』を扱うことは、当初からの計画でもありました。

そして、わたしは前回までの講座で、その計画を7割ほどは達成してきたのではないかと思っています。

ホモ・シグニフィカンスの存在論


では、残りの3割とはどのようなものでしょうか。

それは簡単に言うと、「ホモ・シグニフィカンスの存在論」に対するわたしなりの批評です。

『人間学とは何か』と『情然の哲学』は、わたしの頭のなかで何かしら特別な化学反応を起こしてしまったようなので、そのあたりの事情を自己確認するためにも、わたしは今後、「情然の哲学」の観点から「ホモ・シグニフィカンス」について語ってみようと思うのです。

そうなると、それはわたし独自の人間学研究になるため、その実況中継を行うという点で、この講座はやはり「人間学の現在」になるわけです。

では、ここで再度、『人間学とは何か』の内容を確認しましょう。

まずは、目次を見てください。

まえがき
第1章 人間学の誕生 —ソクラテスの場合
第2章 人間学の基礎と方法
第3章 人間観の類型学からミニマム人間学へ
第4章 ホモ・シグニフィカンスの存在論(1):身体
第5章 ホモ・シグニフィカンスの存在論(2):言語
第6章 ホモ・シグニフィカンスの存在論(3):心
第7章 〈人格〉としての人間
第8章 子供と大人
第9章 性を生きる人間
第10章 人生の意味と無意味
第11章 死
あとがき/事項索引/人名索引

最後の「人名索引」の下にある数字が218ですから、これはおよそ220ページの書籍になります。

分量はそれほどでもありませんが、文章の密度が非常に高いため、学識経験者でないと読むのに難渋する箇所も多々あるかと思います。

ただ、わたしたち人間が「人間学は難しい」とぼやくのも妙な話ですから、「普通の人が読んでわかる人間学の書物」というのもこれからは必要ではないかと思います。

そして、そのような人間学の著作を出すことが日本人間学会の役割の一つではないかとわたしは思っています。

さて、それはともかく、次にこの著作の概要を確認しましょう。

そのためには、「あとがき」にある次の箇所が参考になります。

筆者がこのテクストに盛り込んだ人間学の構想は、要約すれば以下のようになる。人間学とは、人間の自覚を基盤として成立する、人間の自己了解の知的表現に他ならない。人間学の部門は大きく二つに分かれる。
第一に、経験科学とのリエゾンによって人間の存在構造を明らかにする部門。筆者はこの課題に対しては、ミニマム人間学という見地から、人間を「記号機能を営む動物」あるいは〈ホモ・シグニフィカンス〉と捉えることを提案した。この意味で、人間学はとくに記号論的探究と密接な関係を保つべきだし、記号論が認知科学の分野に位置づけられるとすれば、当然ながら認知科学の研究動向につねに留意する必要がある。
第二に、人間の生き方を人間の存在構造からいわば自然に導かれる倫理学(一種の自然主義倫理学)によって吟味し基礎づけることが人間学の課題となる。

菅野氏は「人間学の部門は大きく二つに分かれる」と述べていますが、この見解に対してまったく異論はありません。人間学のなかには、「人間とは何か」という問題意識と「人間はどのように生きるべきか」という問題意識が含まれて当然だからです。

それがどのようなものであれ、わたしたち人間には「人生」というものが与えられています。たとえば、水槽の中に飼われている金魚たちは、命があるかぎりその空間をただ泳いでいればいいわけですから、「生存」はあっても「人生(魚生)」はない、と考えてよいでしょう。

それが証拠に、「魚生」ということばは存在しないし、かりにそのようなことばを作ったとしても、そのことばの意味を適切に定義することはできませんね。

このことは、魚にかぎらずほかの動物においても同じです。「人生」という概念は、やはりわたしたち人間の存在に限って成立するものなのです。

そのため、人間においては必然的に、「人生どうあるべきか」とか「いかに生きるべきか」といった問題が発生します。この問題に関する論議は古くから「人生論」の名のもとになされてきましたが(たとえばトルストイの人生論などが有名です)、20世紀に入るまで哲学の分野で公的に扱われることはありませんでした。

20世紀の初頭に「哲学的人間学」が台頭して初めて、「人生論」が哲学の主要なテーマとして扱われるようになりましたが、もしもその人生論が恣意的なものであるならば、それまでの人生論と何ら変わるところがないことになります。

そこで、「人生論」(もしくはその土台となる倫理学)以前の問題として、「そもそも人間とは何なのか」という「存在論の問題」の解明が必要不可欠な条件となるわけです。

菅野氏は、人間の存在論の問題に関して、マックス・シェーラーの類型学の業績を批判的に検討したうえで、ホモ・シグニフィカンスという概念を提案しています。

この用語自体はロラン・バルト(1915-1980 フランスの思想家)などがすでに用いており、まったく新しいことばというわけではありませんが、この概念に人間学的な意味を与えたのはやはり菅野氏ではないかと思います。

では、このホモ・シグニフィカンスという概念は、人間に対する理解を深める点でどの程度まで役立つものなのでしょうか。

詳細な説明は次回になりますが、わたしが思うに、この概念にはじつは、光と影があります。

いまのわたしのおよその目分量で言うと、長所が半分、短所が半分、といったところでしょうか。

ただし、この概念の短所なるものは、おそらくは普通の状態では認識できないでしょう。

「情然の哲学」の観点からこの概念を検討してはじめて、その短所も明瞭にわかるようになるからです。

このあたりのことは話しはじめると長くなってしまうので、次回の講座で話すことにしましょう。

本講座の二つの目的


この講座もあと数回で切り上げる予定ですが、合計で30回程度になるこの講座は、筆者のわたしからすると二つの目的がありました。

一つは、人間学の教科書として一般に流布しているテクスト(『人間学とは何か』)を「情然の哲学」の視座から読み込み、解説と批評を行うことで、人間学研究の新しい展望を切り開いていくこと。

もう一つは、わたし個人の現在進行形の人間学研究をホームページに掲載することで、サイトを訪れてくれたひとに人間学の魅力を伝えること。

当初からこの二つを目的としてわたしの講座ははじまりましたが、ありがたいことに、どちらの目的もそれなりの達成を確認することができたのではないかと思います。

一つ目の目的についてはあと数回の講座で完全な達成を目指しますが、二つ目の目的についても、すでに望ましい成果があらわれつつあります。

わたしがこの講座を始めてから今日に至るまでのあいだ、何人かのひとたちが当会に入会してくださったからです。

日本人間学会は普通の学会と違い、一般会員という制度を設けています。人間学に興味を持ち向学心をお持ちの方であれば、どなたでも入会することができる制度です。

「人間ってなんだろう? わたしってなんだろう? よりよく生きるにはどうしたらいいだろう?」

こんな素朴な疑問をお持ちであれば、それがそのまま当会に入会する資格となります。

また、これから新しい分野の学びを始めてみたいと思い何を学ぼうか検討している方なども、歓迎です。

わたしが自信をもってお勧めするのは、もちろん人間学です。

なぜかというと、ほかの学問に比べると入門の敷居が低いし、すでに100年の歴史があって中身が濃いし、奥も深いからです。また、人間学を学ぶと人間に対する俯瞰的な判断力を身に付けることができ、自分の人生に役立つことも大いにあるからです。

ここで少し、具体的なケースに触れておきます。

今年の夏、ある方が当会に入会されました。そのひとをNさんと呼ぶことにしましょう。Nさんは当会から『人間学とは何か』を受け取り、人間学の学びをはじめられました。すでにマックス・シェーラーなども読んでおられる向学心のある方です。

入会後しばらくして、Nさんはわたしにメールを下さいました。そのメールには、三つの添付書類がありました。自己紹介の文書と、『人間学とは何か』を要約した文書と、その読後感を記した文書でした。

Nさんはたまたまネット上に見つけた当会のホームページに注意を向け、それをご自身の新しい学びのきっかけとされたのでしょう。

こうした事例が少しずつ積み重なっていくと、当会にもやがて「学識サロン」のような空間が生まれてくるのではないかと思います。

それが、出入り自由の風通しのよいサロンであれば、人々は好んでその場を利用するようになるでしょう。

このような状態を創りだすことが、わたしがこの講座をはじめることにした二つ目の目的でした。

次回は、「ホモ・シグニフィカンス」の問題について語ります。

もう少し具体的に言うと、「ホモ・シグニフィカンスの存在論」と「情然の哲学」が提示する「家族的四位構造の存在論」がどのように重なり合うのか、という問題について話します。

内容がかなり深まっていくと思うので、どうぞご期待ください。

では、今回の話はこのへんで。

26回


今回は、これまで何度か言及してきた「ホモ・シグニフィカンスの人間観」について、わたしの立場からの要約と評価を行いたいと思います。

前回の講座で、わたしは、菅野盾樹氏が提起したこの概念には、光の部分と影の部分があると言いました。

ここでは、『人間学とは何か』をまだ読んでいない方のために、まずはホモ・シグニフィカンスについての解説を行い、次に、この概念についてのわたしなりの評価を行い、最後に、この概念が抱えている「影の部分」についても若干、言及してみたいと思います(その部分についてのまとまった考察は次回の講座で行う予定です)。

ミニマム人間学という発想


はじめに、ホモ・シグニフィカンスについてまとめておきましょう。

『人間学とは何か』の第3章のタイトルは、「人間観の類型学からミニマム人間学へ」というものです。

人間観の類型学とは、マックス・シェーラーが人間を五つの類型に分類したところからはじまったもので、平俗な言い方をするなら、人間のタイプ分けとでもいうべきものです。

類型学についての解説はこの講座の第3講で行っているので、ここでは繰り返しません。

菅野氏は、シェーラーの類型学について批判的に検討しながら、その結論として、ミニマム人間学という概念を提示しています。

人間の存在構造についての必要最小限の定義とは何か、という問題意識から氏はこの概念に到達したようですが、その答えとして、ホモ・シグニフィカンスという人間観が導びかれています。

一流の学者だけあって、氏がホモ・シグニフィカンスという概念を打ち出すまでの論議の道筋は至って論理的で、読者を納得させるだけの力があります。

人間の代名詞として巷でよく言われるのは、ホモ・サピエンスというものですが、この「理性を持った動物」という呼称は、たしかにとてもわかりやすくて便利なものです。

「わかりやすくて便利」なので広く世の中に流布したわけですが、欲を言うなら、人間学としてはもう少し学問としての厳密さがほしいところです。

そこで、菅野氏は、ホモ・サピエンスを始点としながら、「ホモ・ロクエンス」と「アニマル・シンボリクム」を経由し、そのうえで、ホモ・シグニフィカンスなるものを提示するに至ったのでした。

そのため、ホモ・シグニフィカンスを理解するためには、ホモ・ロクエンスとアニマル・シンボリクムを見ておく必要があります。

ホモ・ロクエンスと、アニマル・シンボリクム。耳慣れない用語なので何やら難しそうですが、その意味するところのものは、ある意味、当たり前のものです。

ホモ・ロクエンスとは、「言葉を話す人」という人間観のこと。

なんだ、当たり前じゃないか、と思いますよね。

菅野氏の説明を読んでみましょう。

 ミニマム人間学の構想は、次の二つのタイプの人間観から多大の示唆を汲み取ることができる。ひとつには〈ホモ・ロクエンス〉、すなわち〈言葉を話す人〉という人間観である。ホモ・サピエンスの人間類型によれば、人間の本質は「理性」であった。そしてこの語の原語ロゴスが示すように、理性の具体的で有効な現実形態はなによりも「言語」にほかならない。それゆえ、まだ言葉を解さない幼児や言語能力に重大な支障をきたした人間に「理性」はないと判定されることになる。理性は広い意味の知性の能力であるが、ただしその精確ななかみをどう考えるかについては人によって違っていた。たとえばカントは、感性的所与を概念化する認識能力を「悟性」と呼び、これとは区別して悟性的認識を体系化する高次の能力を「理性」と呼んだ。このように「理性」が必ずしも一義的でも明確でもないのに対して、人間が互いにやり取りする相互行為としての「言語」には比較的に意義の紛れがないように思える。人間は孤立した個人としては生きられない。個々人が相互関係のただなかでしか人間としての存在様態をまっとうしえないかぎり、ミニマム人間学の優先順位としては、理性より言語に人間性の証しを見るホモ・ロクエンスの人間観のほうが他の人間観に先立つ。人間は、神の信仰者、理性の人、政治的動物、遊ぶ人間、経済人、ものを制作する人・・・・などであるより先に「言葉を話す人」だといえよう。逆にもし人間が言語能力を有していなかったら、たとえばキリスト教の信仰がおこなわれただろうか、あるいは共同体の政治的運営ができただろうか、と問うてみよう。答えは明らかではないだろうか。(p46~47)

次に、アニマル・シンボリクムについての説明を読んでみましょう。

 もう一つ参考とすべきものは、カッシーラーが提唱した人間観である。新カント派としてのカッシーラーは、人間の概念作用が単に世界を写し取るのではなくむしろ世界を形態化する働きだと考えた。概念はシンボル(記号、表象)によって表現されるが、彼は理性ないし悟性だけではなく、直感、知覚、想像力などの心の働きのすべてがシンボルによって媒介されるとした。したがって、悟性が形態化する科学的世界のみならず、直感と知覚がもたらす自然的世界や想像力がもたらす神話的世界にもシンボルの形態化の働きが及ぶと見なくてはならない。言い換えれば、科学、芸術、宗教、神話などあらゆる精神の所産は、人間のシンボル機能の所産なのである。この意味で、人間はまさに〈アニマル・シンボリクム〉すなわち〈シンボルを操る動物〉である。
二十世紀の自然科学や数学の新たな進展に深い関心と造詣を有していたからであろうか、カッシーラーは、世紀の比較的早い時期に認識にとっての〈記号〉の意義を重視し、記号機能と人間性との本質的絆を基礎に哲学体系を構想した、ほとんどただ一人の哲学者であった。その仕事の意義はいくら強調しても強調しすぎるということはない。彼の本国ドイツにおいて直接その仕事を継承する研究者は出現しなかったが、現在、ドイツ内外で様々な再評価の試みがなされつつある。
「言語」に代えて「シンボル」を正面にもちだしたことで、彼はホモ・ロクエンスの人間観のある意味の「狭さ」を打破したということができる。後に触れることになるが、カッシーラーはシンボル機能の一種の進化論を考えた。もっとも原初的なのは〈表情〉機能であり、次に〈記述〉機能、最後は〈意味〉機能へとシンボル機能は展開していく。字義的な意味での「言語」の働きは記述機能以降に属することに注意しなくてはならない。「シンボル」は言語を含むと同時に言語以前の身体的表出や表情そしていわば言語以後の論理計算などを含んだ広範囲の領域を覆う概念なのである。このかぎりで、ミニマム人間学としての優先順位はアニマル・シンボリクムがホモ・ロクエンスに先行するといわなくてはならない。(p47~48)

ホモ・ロクエンスとアニマル・シンボリクムについての説明を終えたあと、菅野氏は、ホモ・シグニフィカンスという新しい概念を提示することになります。

該当箇所を読んでみましょう。

以上二つのタイプの人間観から学びながら、私たちとしては〈ホモ・シグニフィカンス〉すなわち〈記号機能を営む人〉という類型を基礎的でミニマムな人間の概念として提案したいと思う。問題となるのは単に言葉の争いではない。ことがらは、ミニマム人間学の内容と資質そのものに関わるのである。(ちなみにこの用語自体は、文化記号論者のバルトが使用しているが、私たちの用語法とは異なっている点に注意を促したい。)(p48〜p49)

そしてこのあと、菅野氏は、人間についての従来の概念をなぜ「ホモ・シグニフィカンス」に更新すべきなのか、という点について説明しています。

しかしながら、詳説するスペースはないので結論だけを述べることにするが、彼の見地はたしかに多大な示唆に富むが、やはりミニマム人間学の見地からすると「狭すぎる」と言わなくてはならない。現代の科学は、生体としての人間が生物学的・生理学的な水準ですでに記号機能(遺伝、免疫など)を営むことを教えているが、カッシーラーがシンボル(記号、表象)というとき、このミクロの水準は彼の視野にはまったくなかった。さらに重大なこととして、彼の考え方の基本には古典的な理性主義がやはり抜きがたく存在している。記号機能の一種の進化論はそのあらわれの一つである。
私たちは、よき伝統に学びながら人間観を新たに建て直す課題をになっている。新たな人間には新たな命名が必要であろう。ホモ・シグニフィカンス―これが新しき人間の呼び名である。(p50)

『人間学とは何か』の第3章はここで終わっています。そして4章からは、3章にわたって「ホモ・シグニフィカンス」についての論議が展開されています。

ではまず、この概念の定義となる部分を読んでおきましょう。

このテクストで私たちが「人間の存在論」と呼ぶのは、人間の存在構造への問いに答えようとする知的探求である。すなわち、人間とはいったい何だろうか、どのような性質や成り立ちをしているのかといった問いへ、経験科学の知見からできるかぎり学びつつ、しかも客観主義や実在論の形而上学に捉われることなく、合理的でバランスのとれた人間像を描写しようとする試みにほかならない。心と身体の古典的二元論を括弧に入れた私たちがその代わりに用意している新たな枠組みは、人間存在を、身体・言語・心という三つの秩序の統合体と捉える人間観である。(p58)

人間の存在構造を、身体・言語・心という三つの秩序の統合体として捉えること。これがすなわち、「ホモ・シグニフィカンス」の基本的な考え方にほかなりません。

三つの秩序の統合体としての人間


では、この「三つの秩序」のそれぞれの要素について菅野氏が語っていることがらを見ていきましょう。

『人間学とは何か』の第4章は、「ホモ・シグニフィカンス」の「身体」についての論議になっています。

カッシーラーの人間観においては、人間の身体におけるミクロレベルの「記号機能の営み」の認識がありませんでした。

無理もありません。エルンスト・カッシーラーは1874年生まれの人で、彼が活躍した時代は二十世紀の前半でしたから。

(彼の著作には『人間:シンボルを操るもの』などがあり、この書物は岩波文庫からも出版されています。)

ところがその後、分子生物学などの著しい発展により、人間の身体においても「自己」をうちに宿した記号機能の営みのあることがわかってきました。その典型的な例となるのは、わたしたちの免疫の能力です。

菅野氏の説明を読んでみましょう。

ところで近年、分子生物学の著しい発展にともない、ミクロな水準における生命現象が単なる機械的な化学反応としては理解できないこと、情報の伝達や受容を基礎とした記号論的現象であることがますます明らかにされつつある。ここでは免疫の仕組みがどのようになされるのか、専門研究の一端を紹介しながら、ミクロな身体的過程がやはり記号過程であることを明らかにしよう。
人間は誰でも顔かたちの相違はともかく身体はほとんど同じ素材からできている。ところがある個人から身体の組織や臓器を別の個人に移植すると、はじめのうちその組織は機能しているが、数日後には組織は破壊され血流は途絶え異物として排除されてしまう。なぜ人間同士の間での臓器の移植が不可能なのだろうか。
生物学者は、免疫系がそれぞれの個体の微妙な差を見分けて、「自己」と異なったところのある細胞や組織を厳格に識別し、「非自己」として拒絶する仕組みを明らかにした。識別の標識となるのは組織適合抗原と呼ばれる一群のタンパク質で、人間ではHLA抗原と呼ばれる。この抵原にはすべての細胞の表面にまるで旗印のように現れているものと、白血球の一部や皮膚細胞の一部など、限られた細胞にのみ現れるものとがある。移植の拒絶反応は、このHLA分子のどれかひとつが異なっても起こる。T細胞と呼ばれる免疫細胞は、このHLAの微妙な違いを認識して、移植組織を排除しようとする。自分と異なるHLA抗原を持つ細胞を発見すると、T細胞はさまざまな手段で攻撃する。直接にとりついて破壊する場合もあり、特殊な物質を分泌して他の細胞を動員し、自己以外の細胞を排除する場合もある。このように、拒絶反応は、「自己」と「非自己」の識別を基礎とする反応なのである。―この記述中の「認識」、「発見」、「排除」、「拒絶」などの用語は、部分的に擬人法が混じった一種の省略語法にほかならないが、問題の本質は擬人法にあるのではなくて、生体の免疫反応が「意味を媒介とした反応」であるという点にある。移植された組織は「非自己」という標識をそなえているために排除される。このかぎりで、免疫は単なる化学反応ではなくて意味が介在する記号過程なのである。(p67〜p68)

言われてみればたしかにそのとおり、という内容ですね。人間のからだにはミクロのレベル、すなわち細胞の次元においても、代替不能の個性なるものがあるというわけです。

個性がある、ということは、互換性がない、ということでもあり、たとえば、Aさんの臓器をBさんに移植しようとしても、Bさんのからだはそれを受け付けない、という事態が起こります。

菅野氏はこうした事実を指摘しながら、人間の身体もまた、「ホモ・シグニフィカンス」にほかならないことを主張します。

では、次にいきましょう。

『人間学とは何か』の第5章は、「ホモ・シグニフィカンス」における「言語」の説明です。

人間と言語の関わりについては古くから多くのことが言われているし、わたしもこの講座のなかで何度か言及しているので、ここでは、菅野氏の論議の要点だけを述べておきましょう。

これまでの人間学になかった論点として、菅野氏は、人間の「表情」について踏み込んだ話をしています。

人間がもつ「表情」機能について改めて考えてみると、たしかに、真摯に向き合うべき哲学的なテーマがそこにあることに気づきます。

たとえば、ヒトの顔からすべての表情を消してしまうと、ヒトはヒトではなくなってしまいます。まったく表情のない人間たちの世界は奇怪というほかなく、考えただけでもぞっとしますね。

言語と表情の関係についての菅野氏の論議も秀逸で、一読に値します。

これらの言説は、新しい世界をわたしたちに見せてくれたという点で「ホモ・シグニフィカンス」の「光の部分」と考えてよいでしょう。

菅野氏は、「言語」の存在を人間の「身体」と「心」から独立させたことで、現代を生きるわたしたちによりフィットする世界観を描き出すことに成功しているように思えます。

「はじめに言葉ありき」というのは聖書の思想でもあるし(ヨハネによる福音書の冒頭部分を参照)、菅野氏が指摘したように、東洋の哲学においてもそれと重なるような世界観が説かれています。

また、言語学の創始者であり構造主義の火付け役となったソシュールに対する評価と批判も、菅野氏ならではの卓見です。

「言語」は、人間の発明品でありながら人間に先立って存在しているものでもあり(この点については文法の成立過程について考えてみるとよいでしょう)、「文は人なり」と言われるように、単に意見の表明や意思疎通のためのツールというわけでもありません。

つねに何かしらそれ以上の役割を担っているものが言語ではないかと、わたしも常日頃感じています。

では、次にいきましょう。

『人間学とは何か』の第6章は、「ホモ・シグニフィカンス」における「心」の考察です。

心の中心部分につねにあるのは、やはり「自己」というものではないかとわたしは思います。

「自己」の何たるかについて考えてみると、話はすぐにややこしくなってしまいますが、この章の小見出しは、事物の「自己」、人間の「自己」、心の「自己」となっており、そのあとに、機能主義、心と言語の類比説、という小見出しが続いています。

この章は上記の5つの小見出し(セクション)によって構成されていますが、そのなかで、わたしが最も重要だと思う箇所のみを引用しておきましょう。

私たちはすでに古典的な心身の二元論を放棄した。かわりに身体・言語・心という三重の構造として人間を捉えようとするのが、私たちが選んだ見地である。身体がすでに記号機能をおこない言語と切り離しがたく結ばれ、逆に言語が基本的には身体の所作であり表情であったように、人間存在の三重構造はそれぞれの位相の構造が他の構造を先取りしかつ後者が前者を強化するような構成を備えるように見える。したがって、言語がすでに意味を表すとすれば、心はそれにもまして意味作用の器官だといえよう。逆に心が言語の意味機能を強化するのは明らかである。人はしばしば心に思うことを言葉にだすからである。心へのこうしたアプローチを「心と言語の類比説」と呼ぼう。心は一種の言語のようなものだ、というのがその基本的洞察である。(p103)

ではそろそろ、今回の講座のまとめに入りましょう。

「ホモ・シグニフィカンス」の限界点


「ホモ・シグニフィカンス」の「光の部分」についてまとめてみると、それは、最新の経験科学の成果を取り込んで人間観の更新に成功したこと、ということになるでしょう。

その意味で、菅野氏が『人間学とは何か』において設定した目的は、みごとに達成したと言えます。

「あとがき」のなかで、たとえば菅野氏は次のように述べています。

ここ二〇年ほどに限っても、「人間学」と銘打たれたテクストがいくつも出版されていることは承知している。そのすべてを参照できたわけではなく、すべてがそうだと言うのでもないが、それらのテクストには「未完の企てとしての人間学」という問題意識が乏しいように思われた。それらのテクストのように、人間に関係するさまざまなテーマを適宜選択し、それらに関する著名な哲学者ないし思想家の見解を公平に紹介し若干のコメントを綴って一書を成すというやり方だけは避けよう。これが筆者がこのテクストを執筆するにさいして自身に課したルールだった。何よりも人間学の〈構想〉が問題であった。筆者の脳裏で〈人間学〉のイメージが明確な輪郭をとるまでかなりの紆余曲折があり、結果として執筆に予想外の時間がかかってしまったというわけである。(p202〜p203)

非常に共感のできる発言であり、このような優れたテクストによってわたしもまた、人間学研究に対するモチベーションを高めることができたわけです。

では、ひるがえって、「ホモ・シグニフィカンス」の「影の部分」とはどのようなものでしょうか。

詳細については次回の講座で話しますが、わたしの見るかぎり、『人間学とは何か』の7章から11章(最終章)までの内容は、この著作の1章から6章までの内容ほどには充実していません。

もちろん、これは菅野氏の力量が不足しているからというわけではなく、また、7章以降のテーマの設定が不適切だったからというわけでもありません。

事実、7章から11章にかけても、菅野氏は、人間学にとって最重要ともいえるテーマについて独自の視点から論議を展開しています。

ですからそういう意味においては、『人間学とは何か』は十分に充実した書物であるともいえます。

このテクストが大学の授業で教科書として使われることにも、わたしにはまったく異論がありません。

にもかかわらず、この書物の後半には、わたしを唸らせるほどの「斬新なもの」がありませんでした。

なぜかというと、「ホモ・シグニフィカンス」の「光の部分」が、7章以降の論議のなかでは影をひそめてしまったからです。

そのため、「ホモ・シグニフィカンス」としての人間はいかに生きるべきか、ということがらが十分に語りきれない状態で、この本は終わっています。

このあたりの問題が、わたしには「影の部分」として感じられているのです。

次回の講座では、この問題についてもう少し詳しく話してみたいと思います。

では、今回の話はこのへんで。

27回


前回の講座で予告したとおり、今回はおもに、「人間学とは何か」の「影」の部分について話してみたいと思います。

ホモ・サピエンスからホモ・ロクエンス、ホモ・ロクエンスからアニマル・シンボリクム、アニマル・シンボリクムからホモ・シグニフィカンスへと、菅野氏の「ミニマム人間学」の話は進んできました。

そして、菅野氏が3章を割いてホモ・シグニフィカンスの人間観について論じたとき、わたしには、「ここに人間学研究の新しい地平が開かれている」といった思いがありました。

その思いは今も変わっていませんが、この新しい人間の捉え方には、光の部分とともに影の部分もあることが、わたしには当初から漠然とながら感じられていました。

いまのわたしに、その部分を過不足なく語れるかどうか分かりませんが、以下、『人間学とは何か』に見られるいくつかの「脆弱性」について話してみることにしましょう。

ただ、その前に、この書物の周辺的なことがらについて簡単に確認しておきたいと思います。

『人間学とは何か』とその周辺


菅野氏は長年大学の教授職にあったひとですから、当然、いくつかのまとまった著作を執筆しています。

そのうち、出版物として手に入るものには、『人間学とは何か』を含め以下のものがあります。

 『我、ものに遭う――世に住むことの解釈学』新曜社 1983年
 『メタファーの記号論』勁草書房 1985年
 『いじめ=<学級>の人間学』新曜社 1986年
 『いのちの遠近法――意味と非意味の哲学』新曜社 1995年
 『増補版・いじめ』新曜社 1997年
 『人間学とは何か』産業図書 1999年
 『恣意性の神話――記号論を新たに構想する』勁草書房 1999年
 『新修辞学――反<哲学的>考察』世織書房 2003年
 『示しの記号 再帰的構造と機能の存在論のために』産業図書 2015年

ここに紹介した著作リストを眺めてみると、菅野氏は、『人間学とは何か』以外には、人間学を直接のテーマとした著作をほとんど世に問うていないことがわかります。

菅野氏の専門分野は「記号論」ですから、記号論に関する著作が多いのは当然としても、『人間学とは何か』の出版のあと、その著作の続編と言うべきものが見当たらないのは、奇妙といえば奇妙です。

もしかすると、人間学の研究に関しては、その後、捗々しい(はかばかしい)進展がなかったのかもしれません。

また、『人間学とは何か』の反響なり影響なりについて調べてみても、これといったものは見当たりません。

これは笑い話ですが、ためしにホモ・シグニフィカンスという用語を検索してみても、わたしのこのブログが上位表示されてしまうくらいですから。

結局、日本における人間学の研究に関しては、菅野氏の業績を継承した人はいないし、また菅野氏自身も、人間学の研究を生涯のライフワークとして進めてきてはいないことがわかります。

以上のことを念頭におきながら、『人間学とは何か』の「影」の部分について見ていくことにしましょう。

『人間学とは何か』の脆弱性


『人間学とは何か』は十分に立派な書物ですが、この書物を読んでみても、わたしたちのいわゆる「人間了解」が根底から揺さぶられるわけではありません。

そのなかで提起されたホモ・シグニフィカンスなる人間観も、「これで決まりだ」というほどに人間の基本構造を捉えているようには思えません。

たしかに、人間は「記号活動を営む存在」であり、それはそれとして有効な視座ではあるものの、この視座からでは、人間存在のデジタル的な側面しか光が当てられないのではないか、というのが、当初からのわたしの疑問でした。

人間存在の記号的な側面をいくら研究しても、そこから、たとえばクオリアの問題などは解き明かすことができないからです。

わたしは現代の科学には不案内ですが、多くの人が語るように、この世界を量子の集積、あるいは波動の束と捉えることもできるでしょう。

しかしながら、たとえそれが事実であったとしても、量子の集積によって成立しているこの世界にひとはなぜクオリアを感じるのか、という疑問は残ります。

わたしたちは生まれてから死ぬまで、そして朝起きてから夜寝るまで、この世界にさまざまなクオリアを感じつつ生きている存在だからです。

(裏を返すと、わたしたちは日頃の生活のなかで、この世界を量子の集積や波動の束として意識することはありません。)

わたしたちにとってクオリアの問題が瑣末なものであるならば、この問題を丸ごと無視してしまっても差し支えないでしょう。

ところが、ものごとに高いクオリアを求める欲求は、人間が持つさまざまな欲求のなかでもとくに人間らしい欲求のようにわたしには思えます。そのため、人間学としても、この「クオリアの問題」を無視するわけにはいかないのです。

この点に関して身近な例を挙げるならば、たとえば、ある人がレストランに入って食事をし、美味な料理を堪能してしあわせを感じたとします。この場合、その人は、高いクオリアの味覚に満足したことで幸福感を得たわけですから、クオリアの問題は、よりよい人生を求めるひとにとって避けては通れないテーマとして現にあるといえます。

人間の存在を「ホモ・シグニフィカンス」と定義した途端、このクオリアの問題が影の領域に押し込まれてしまうため、わたしの率直な感想を述べるならば、人間はホモ・シグニフィカンスであるとともに何かしらそれ以上の存在である、と言うほかないように思えます。

簡単に言うと、ホモ・シグニフィカンスという定義では、人間存在の基本構造を十分にカバーできないのではないか、ということですね。

これが、わたしが思うところの『人間学とは何か』の脆弱性の一点です。

二点目の脆弱性としては、ホモ・シグニフィカンスの概念が、この書物の後半の各章において十分に生かされていない、ということが挙げられます。

念のため、第7章以降の『人間学とは何か』の各章のタイトルを確認しておきましょう。

 第7章 〈人格〉としての人間
 第8章 子供と大人
 第9章 性を生きる人間
 第10章 人生の意味と無意味
 第11章 死

たしかに、人間学にとって非常に重要なテーマがここには並んでいます。わたしたちは何よりも「人格」として生きているし、子供から大人へと成長していく存在であるし、男または女として生きる存在であるし、自分の人生に「意味」を感じたり「無意味」を感じたりする存在であるし、また、例外なく死すべき存在でもあります。

ですから、この書物の目次はとても魅力的で、わたしなどは、「どんなことが書いてあるんだろう」という好奇心を大いにそそられたものです。

おまけに、第1章から第6章までは人間学の諸問題に関するスリリングな論議が展開されており、「もしかするとこのなかに人間に関する大いなる真理があるかもしれない」という期待すら抱いてしまうほどのものでした。

ところが、これは実際に読んでみれば分かりますが、ホモ・シグニフィカンスという新しい人間観は、第7章以降の論述に必ずしも役立っているわけではありません。

いや、というよりも、ほとんど役立っていません。

わたしとしては、人間にはなぜ男女の二性があるのか、人間はなぜ子供から大人へと成長する存在なのか、人間にはなぜ死があるのか、といった人間学の根本問題がホモ・シグニフィカンスの視座から明快に解き明かされることを期待していたのですが、結果として、さすがにそれは「期待のし過ぎ」であり「ないものねだり」というものでした。

人間存在の根本問題がホモ・シグニフィカンスの視座から解き明かされるどころか、ホモ・シグニフィカンスとの関連付けすらなされていない状態で7章以降の論議は展開されていたのです。

これが、わたしが思うところの、『人間学とは何か』の二点目の脆弱性です。

しかしながら、わたしはこのことに失望したわけではありません。

ある哲学の脆弱性が認知できるということは新たな研究課題が見つかるということですから、それはそれで意味のあることだからです。

また、菅野氏の「ホモ・シグニフィカンスの人間観」に対しては、「人間の類型学の現代化に寄与した」という評価があるように、それはそれとして、人間学の研究を一歩前に進めたものになっているからです。

ただし、それはあくまでも「一歩」であって、それがすなわち究極の人間観であるとはいえないところに、わたしの「気付き」や「学び」があったことになります。

そのためわたしの人間学研究は、「ホモ・シグニフィカンスの人間観」を踏襲することなく、別のパラダイムを探し求める方向に進むことになったわけです。

とはいえ、わたしたちに新しいパラダイムを提示してくれる包括的な哲学などというものは、そう簡単に世の中にあらわれるものではありません。

それは確かにそうなのですが、わたしの場合には幸運にも、きわめて例外的な事態が起こることになりました。

そこで、少し個人的な話になってしまいますが、ここでちょっと話題を変え、わたしのこれまでの人間学研究の足取りを簡単に振り返ってみたいと思います。

「新しい哲学」との遭遇


思い起こすと、わたしが『人間学とは何か』を熱心に読んでいたのは、2010年から2013年のころまでの期間でした。わたしはこの学会、すなわち日本人間学会に2010年の春に入会していますが、その当時、ある研究会員の方から『人間学とは何か』を勧められ、その書物を手がかりに人間学の学びをはじめたのです。

もちろん、それはそれで有意義な学びでしたが、一方で、「人間についての思索」と「人間学の学び」のあいだには何ほどかの隔たりがあることもわたしは感じていました。

人間学とは本来、人間について深く考えるための学問であるはずのものですから、既存の書物の学び自体が目的となってしまっては意味がありません。ですからわたしは、既存の人間学を学ぶ以上に人間について自ら考えることを心がけていたのですが、そんなわたしに大きな壁となっていたのは、やはり「世界とは何か」という問題でした。

もう少し正確に言うと、今のこの世の中に「正しい世界観」と呼べるものがあるのかどうか、という問題でした。

宗教的な世界観や唯物論的な世界観であれば、たしかに今の世の中にも「それなりに包括的な世界観」がありますね。

たとえばそれは、キリスト教やイスラム教や仏教、あるいは、共産主義に代表される「唯物教」などです。

しかしながら、それらの世界観を背景にして人間について考えてみても、そこから大した人間像は出て来ません。

正直なところ、「まったくわくわくしない陳腐な人間像」しか出てこないのです。「人間に生まれてきてよかった」と思えるような人間像がそこにはなく、「この世界はなぜあるのだろう」という根本の疑問は、いろんな書物を読みいろんな世界観に触れてみても依然として疑問のままでした。

ハイデガーの「世界・内・存在」という術語を引き合いに出すまでもなく、わたしたち人間は「世界」のなかに生きる存在です。犬や猫のような動物であれば「自然界のなかに生きる」と言うだけでこと足りるでしょうが、わたしたちが生きているのは自然界のなかだけではありません。そのため、「世界とは何か」という問いかけが必然的に起こることになります。そして、その問いかけに答えを与えてくれるものが、哲学や思想、あるいは宗教や科学ということになるわけです。

ところが、その頼みの綱もいまや混乱状態。

どの分野のどの説を信じればいいのかさっぱりわからない、というのが、大方の人々の現状ではないでしょうか。

わたしもご多分に漏れず、あたかも漱石の小説の登場人物のごとくさまざまな思想遍歴を経験してきましたが、そんなわたしに一筋の光を投げかけてくれたのが、ある哲学書だったのです。

それはほかでもない、2014年の10月に刊行された『情然の哲学』でした。

人間学研究の新たなステージへ


『情然の哲学』については、わたしのこれまでの講座ですでに詳しく解説してきているので、ここでその内容にあらためて立ち入ることは控えましょう。

この哲学が放つ光のおかげで、わたしには『人間学とは何か』の影の部分が見えるようになり、そしてそれによってわたしの研究も新たなステージにたどり着くことができたのでした。

『情然の哲学』では、世界観に関する次のような課題に明瞭な回答が出されています。

  •  アルケーの問題
  •  クオリアの問題
  •  自己と他者の問題
  •  自己と世界の問題
  •  人間存在の基本構造の問題
  •  人間の死の問題
  •  人間の生と愛の問題


そのため、「情然の哲学」をベースにすることで新しい人間学の構想が可能ではないかとわたしは思い、ここ数年はそちらの方面で研究活動を進めてきたのでした。

では、その新しい人間学のコンテンツとはどのようなものなのでしょうか。

これについては、次の次の講座で話してみることにしましょう。

わたしのこの講座は30回をもって終了する予定ですが、次回、すなわち28回の講座では、これまでのわたしの話の総まとめをしようと思います。

そして、29回の講座において「新しい人間学」の構想について話し、最後の講座では、新たな連載の内容について話そうと思っています。

新しい講座については、そのタイトルだけをいまここでお知らせすることにしましょう。

それは、文学と人間学、というものです。

では、今回の話はこのへんで。

28回


前回の講座で予告したとおり、今回のわたしの話はこれまでの講座のまとめになります。

振り返ってみますと、初回の講座の掲載が2020年の4月のことでしたから、わたしはおよそ三年間にわたりこの講座を連載してきたことになります。

そのあいだ、わたしは自分の過去の記事を読み直してみたことが一度もありませんでした。

そのため、「自分はこれまで何を語ってきたのだろう」という思いが自分のなかにくすぶるようになり、「そろそろ読み直してみたほうがいいぞ」と思うようになりました。

そして、初回から前回までの通し読みを完了したのが、数日前。

アルバムを見るような懐かしい気分を抱きながら、わたしは自分の過去の記事と再会したわけですが、何にせよ、振り返りというものは悪いものではありません。

過去の自分の記事を読むことは、過去の自分と向き合うことと同じです。

「汝自身を知れ」というのは、人間学の創始者ともいわれるソクラテスのことばですが、この講座の連載を読み直してみることで、わたしは、自分自身の人間学研究の履歴を俯瞰できたように思います。

では、結局自分はこの講座のなかで何を問題にし、何を語ってきたのでしょうか。

それぞれの講座のなかで打ち出してきた論点をいま一度整理しながら、ここ数年間の人間学に関わる自身の発言の内容を概観してみたいと思います。

どこを入口にするかという問題


もともとこの講座は、当会のホームページを訪問してくださった方に対するサービスおよび広報として企画されたものでした。

不特定多数の人に向けて人間学について語るわけですから、何を入口にするかということが最初の問題になります。

哲学的人間学にはすでに100年の歴史があるので、これまでに出版されてきた文献を収集するだけでも大がかりな作業になります。

とはいえ、初学者向けの質の高い入門書といえば、その数はおのずから限られてきます。

そこでわたしが選んだのが、菅野盾樹氏の『人間学とは何か』でした。

このテキストを人間学の学びの入口に設定したことは、まぁ妥当だったのではないかと今でもわたしは思っています。

ただし、わたしはこの講座を雑誌記事的なものとしてはじめたため、一貫したテーマをこの講座に与えようという意識はあまりありませんでした。

そのため、いま読み返してみると、この講座の数回までの話はややまとまりに欠けたものになっているのがわかります。

近い将来、講座の原稿に手を入れて一冊の書物にまとめる機会があるかもしれませんが、それはそれとして、これからこの講座の内容を簡単に振り返ってみることにしましょう。

この講座のなかでわたしがはじめに問題にしたのは、「人間の類型学」というものでした。

第1回の話は、この講座の序論とも言うべきもので、当会の創始者である高島博先生とヴィクトール・フランクルとの関係について話しました。

そして第2回の講座から、人間学の入門講座をはじめています。講座を開講するにあたってまずは基本となるテキストが必要なので、わたしはそれを『人間学とは何か』にしたわけです。

しかしながら、このテキストの内容を初めから解説すると、話がかなり退屈なものになってしまいます。どんな話をするにせよ、発話者としては「退屈さ」だけは避けたいわけですから、そこは若干工夫して、人間の類型学というテーマをはじめに持ってくることにしたわけです。

これでいちおう、「どこを入口にするかという問題」には対処することができたと思っています。

「ミニマム人間学」を括弧に入れる


マックス・シェーラーが提示した人間の類型学については、この講座の第2回と第3回で解説しています。菅野氏はシェーラーの類型学を批判的に検討し、そこからミニマム人間学という新しい見解を提示していますが、このあたりの議論に関してはわたしも菅野氏の見解に同意しています。

ただし、わたし自身の人間学研究が菅野氏のミニマム人間学を基礎にしているわけではありません。

第10回の講座において、わたしはミニマム人間学の限界について話していますが、そのあたりの発言をいま振り返ってみると、わたしは初めから、菅野氏の「人間学」にはしかるべき距離を置いて接していることがわかります。

菅野氏は、シェーラーの類型学を批判的に踏襲し(ホモ・◯◯という思考の枠組みまでは放棄していません)、さらにデカルトの二元論を括弧に入れることで、ホモ・シグニフィカンスという新しい概念を定立することに成功しています。

ところが、日本人間学会の人間学研究は、菅野氏の「ホモ・シグニフィカンス」を全面的には是認していません。氏の研究には一定の敬意を払ってはいるものの、「それで人間の存在を根底から捉えることができますか?」という批判精神もこの学会のなかにはあるのです。

わたしがこの講座に「人間学の現在」というタイトルをつけたのも、この講座によってポスト・ホモ・シグニフィカンスの世界観を探求しようと考えていたからです。

そうでなければ、この講座は、既存の人間学の解説講座に過ぎなくなってしまいますから。

大学の授業であるならそれでも大いに結構でしょうが、人間学会のホームページに載せるものとしては、その程度の水準のものではやはり不十分です。

それで、わたしの人間学研究は菅野氏の「ミニマム人間学」を括弧に入れることで、「新しい人間学」なるものを打ち出すことになったわけです。

そのためこの講座は、結果的に、その「新しい人間学」を語るための準備的な論考になっているように思えます。

特別な霊長類としての人間


では、この講座の第4回から第10回までのあいだ、わたしは何を語ったのでしょうか。

これらの回に通底しているわたしの問題意識は、人間を「特別な霊長類」と見た場合にどんな人間学が構築可能か、というものだったように思います。

そのあたりのことを確認するために、これらの講座の小見出しのなかから重要なものを選んで以下に列挙してみましょう。

第4回 人間学の誕生/自己意識と自由意志
第5回 人間学の成立根拠/人間学の意義
第6回 ジャーナリズムと人間学/実学としての人間学
第7回 人間の初期設定/人間学に公理はあるか/特別な哺乳類としての人間
第8回 人間学の二つのテーマ/「意味」を求める存在としての人間
第9回 人間の存在構造の問題/世界認識の窓口としての言語
第10回 「ミニマム人間学」の功績と限界/浮上する「存在論」の問題

これらの講座のなかで、わたしは、「ミニマム人間学」には限界があり、そのために「新しい人間学」の構築が必要だと述べています。

そこで話の順路としては、その「新しい人間学」とはどのようなものなのかということをそれ以降の講座で語るべきなのですが、その構想について簡単には語れない事情がありました。

なぜかというと、新しい人間学を語るためには、新しい世界観のバックボーンを必要としたからです。

しかしながら、新しい世界観なるものは、そう簡単に世の中にあらわれるものではありません。

そこで通常であれば、この手の話はおおむね問題提起だけで終わってしまうわけですが、そうなってしまうと、この講座は羊頭狗肉のものになってしまいます。

手の内を打ち明けると、まぁ、あらかじめ突破口が用意されていたので、わたしは大胆にも「今の世の中には新しい人間学が必要だ」などと威勢のいいことを言ったわけですが、その突破口とはすなわち、「情然の哲学」でした。

そのため、わたしのこの講座は第11回以降、「情然の哲学」の紹介と解説に入っていくことになったわけです。

基礎理論としての「情然の哲学」


「こんな哲学がある」ということで、わたしが初めて『情然の哲学』を紹介したのが、第11回。それ以後のわたしは、どうやってこの新しい世界観を一般の人に紹介するかという問題に腐心するようになりました。

第11回では『情然の哲学』の巻末にある用語解説をそのまま引用し、「世界のはじまりは〈情然〉にあった」という点について説明しています。そして第12回から、この哲学について本腰を入れて解説しています。

第12回の冒頭は、「今回から数回にわたって情然の哲学について解説します」というものでしたが、結果的には、わたしの「情然の哲学」の解説は第24回まで続きました。

当初は数回程度で終わるだろうと思っていたのですが、実際には13回にわたってわたしはこの哲学について語っています。

では、それらの講座のなかでとくに重要に思える小見出しを回ごとに二つ選び、以下に列挙してみましょう。

第12回 哲学の原点回帰/『情然の哲学』の功績
第13回 数の「隙間」問題/差異と間と関係と場
第14回 情と心のトートロジー/ありのままの事実としての「情」
第15回 「情然」と東洋思想/「神の愛」と「情然」  
第16回 ミクロの世界の常識/マスターキーとしての「情然」
第17回 「情」の普遍的な性質/情然の場にあらわれた陽陰の極性
第18回 親子軸と男女軸の発生/「原初の心」の成長過程
第19回 「情然」から生まれた「愛」/進化した人権思想
第20回 愛と物質の意外な関係/愛と存在は同じもの  
第21回 人間と万物、人間と神の関係/愛の理想と世界の創造
第22回 世界観の三つの立場/第四の世界観の登場
第23回 和と道の文化/日本語の構造と存在の構造
第24回 キリスト教と共産主義/対立に満ちた世界

そして、第25回から再び『人間学とは何か』の話に戻り、以後3回にわたって、菅野氏の提示した「ミニマム人間学」の限界について話しています。

そのため、わたしのこの講座は第27回をもって一つの区切りを迎えたといえます。

30回近く講座を続けていると、いつまでも講座を続けていてもいいような感じになるのですが、適当な分量で切り上げるのも大切なことだと思い、前回をもって「人間学の現在」の本編を終了することにしたのでした。

前回の講座で予告したとおり、今回の講座は第1回から第27回までの講座のまとめであり、次回の講座は「新しい人間学」の構想の説明になります。

ただし、新しい人間学(これについてはいずれ何らかのタイトルをつけるつもりです)の講座をこのホームページ上ですぐにはじめるわけにはいきません。

そうすることができればそうしてもよいのですが、新しい思想の構築にはやはりそれなりの準備期間が必要になるので、しばらくはベータ版のようなものを作成しようと思っているのです。

そして、そちらの原稿のほうは当会の会報に投稿しようと考えています。

そのため、前にも話しましたが、この講座の第30回(最終回)の内容は新しい講座の説明になります。

ちなみにその講座のタイトルは、「文学と人間学」というものです。

では、今回の話はこのへんで。

29回


前回の講座で予告したとおり、今回は「新しい人間学」の構想についての話です。

わたしが現在構想している「人間学」が何に対して「新しい」のかというと、やはり、これまでの人間学研究の一連の流れに対して、ということになります。

こんなふうに言うと、「ひとりで新しがっているだけじゃないの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、わたしとしてはまぁ、新しくても新しくなくても、そういうことは大して重要ではないと思っています。ただ、これまでの人間学研究の文脈を踏襲するだけでは現在のわたしの世界観を語ることができないので、とりあえずそれを、新しい人間学、と呼んでおこうと思っているわけです。

人間の類型学を括弧に入れる


新しい人間学の構想について語るにあたり、まずは、「人間の類型学」を括弧に入れることからはじめたいと思います。

人間の類型学については、この講座のはじめのほうで取り上げているので、ここでは繰り返しません。わたしたちはそれぞれ唯一無二の個性を持っている存在ですから、それをいくつかのグループに分けようとしてもうまくいかないのは、当然といえば当然です。このあたりのこともすでにこの講座のなかで説明しているので、繰り返しは避けましょう。

人間のグループ分けを括弧に入れるということは、人間に対して「ホモ・◯◯◯◯」という捉え方をしないことです。たとえば、ホモ・サピエンスということばは人間の存在の一面をよくあらわしていますが、それはあくまでも一面に過ぎません。もちろん、ホモ・ロクエンスでもホモ・シグニフィカンスでも事情は同じです。

ですからそれは、一つのレッテルに過ぎず、ある角度から見た場合にはそう見える、といったことがらに過ぎないわけです。

では、わたしたちはこれまで、人間について考えるためのより適切な観点というものを考えてこなかったのでしょうか。

もちろん、そういうわけでもありません。

たとえば、マスロー(1908~70)という学者がいます。

この人は、高校の「倫理」の教科書にも定番で登場するほど著名な心理学者ですが、人間の欲求には五つのランクがあるという説を出しています。

教科書の記述を引用してみましょう。

欲求は一般的に、生命の維持のために身体的・生理的に欠くことのできない生理的欲求(一時的欲求)と、自己の個性の実現をはかることや他者に認められることを願う社会的欲求(二次的欲求)の二つに分けられる。
アメリカの心理学者マスローは、人間の欲求を分類し、低次から高次の順に五段階の階層を提示した。第一層には生理的欲求があり、これが満たされると第二層の安全と安定を求める欲求が生じ、これがかなえば愛情と所属の欲求、さらに自尊と承認の欲求へとすすんでいく。第一層から第四層までを欠乏欲求といい、下位の欲求が多少とも満たされることで、はじめて上位の欲求が生じる。そして、欠乏欲求がすべて満たされると、第五層の自己実現の欲求が生じる。(清水書院『高等学校新倫理改訂版』p12)

マスローはシェーラーのように人間のタイプを五つに分類したのではなく、人間が普遍的に持つ欲求を五つの階層に分類したわけです。

たしかにわたしたちは人種や国籍にかかわりなく、また性別や個性にもかかわりなく、マスローが分類したような欲求をみな持っていますね。

そして、これらの欲求がすべて満たされるとき、わたしたちはこの上ない幸福を感じる存在なのではないでしょうか。

であるとすれば、マスローのこの学説は、わたしたちの人生において大いに役立つものといえるでしょう。

そのため、わたしは人間の類型学を括弧に入れ、その代わりに、マスローのこの学説を「新しい人間学」の土台に据えようと思っているのです。

「情然の哲学」と新しい人間学


次に考えておくべきことがらは、「世界とは何か」という問題です。

すでに何度も述べているように、人間学の基本的なテーマは、人間の基本構造の解明と、よりよく生きるとはどういうことか、という問題についての探求です。

この二つのテーマは、菅野盾樹氏の『人間学とは何か』のなかでも詳しく解説されています。

問題自体はすでに、はるか昔、ソクラテスによって提起されてはいたものの、わたしたちは現在、この二つのテーマについて満足のいく答えを得ていません。

人間の基本構造の問題もいまひとつわかっていないし、いかに生きるべきかという問題についても同様です。

ですから、哲学的人間学というものは、これからあらためて基礎づくりをしなければならない学問の領域なのです。

少なくともわたしには、そのようなものとして捉えられるのです。

ただし、これもこれまで何度か述べてきたことですが、人間だけを見つめていても、人間とは何かという問題に答えを出すことはできません。

わたしたち人間は社会のなかに生きる存在であり、また自然界のなかに生きる存在ですから、人間を人間として生存せしめている世界そのものの本質がわからないかぎり、人間とは何かという問題にも答えを出すことができないのです。

そこで登場したのが、『情然の哲学』のなかに語られている世界観でした。

「情然の哲学」の内容については、すでにこの講座のなかでかなりのスペースを割いて解説しているので、ここでは繰り返しません。

この哲学をベースにすれば「人間」についての理解もぐっと深まるのではないかとわたしは思い、新しい人間学の構想について考えはじめたのでした。

「情然の哲学」は、アルケー(世界の初めにあったもの)を「情然」と見ることで新しい世界像の定立に成功しています。

情然という概念自体がそれまでになかった新しいものですから、必然的に、「情然の哲学」は新しい哲学となります。

その新しい哲学の観点から改めて人間について考えるとすれば、それもやはり必然的に、新しい人間学ということになるでしょう。

この哲学では、「情然」の状態から「原初格」が生まれ、その「原初格」からわたしたちのこの世界が生み出された、ということになっています。

また、存在の問題においても、その原理を「家族的四位構造」と見ることで、わたしたち人間がなぜ家庭のなかで生まれ、家庭のなかで育ち、成人してからは新たな家庭をつくり、老いた末に家庭のなかで死んでいくのか、という問題についても哲学的な答えを出すことに成功しています。

そのため、この哲学の世界観をベースにして新しい人間学を構想することは十分に可能ではないか、とわたしは考えているのです。

「神」と「原初格」の問題


ただし、既存の人間学や、マスローの学説や、「情然の哲学」などを学んでも、そこから新しい人間学のビジョンがすんなりと生まれてくるわけではありません。

なぜなら、「情然の哲学」も完結した哲学ではなく、それを人間学のベースとして援用する場合、わたしたちはいくつかの課題に直面することになるからです。

課題点はいくつかありますが、ここではそのうちの一つを取り上げておきましょう。

たとえば、『情然の哲学』に登場する原初格という概念。

このことばにはどことなく無機的な感触があり、また、西洋の形而上学のなかにでも出てきそうな雰囲気があります。

このことばを「神」に置き換えてみるととてもわかりやすくなるのですが、では「原初格」と「神」がイコールなのかというと、そうでもありません。

もしも「神」と置き換えて差し支えないのであれば、『情然の哲学』の著者は初めから神という言葉を使っていたことでしょう。

しかしながら、わたしたち人類はすでに数千年間も神ということばに馴染んできているので、いまさら神ということばの代わりに原初格ということばを使うわけにもいかないだろう、とわたしは思うわけです。

そこで、このあたりの問題をどうするか、ということが一つの課題となります。

わたしたちがまずするべきことは、神という概念をある程度明確にしておくことでしょう。

というのは、わたしたち日本人にとって、神というのはかなり曖昧な概念だからです。

神社に行っても神様がいるし、また教会に行っても神様がいますね。(ちなみにお寺に行けば仏様がいます。)

神社の神様と教会の神様が違うのは当然ですが、「原初格」に近い神といえば、やはり教会の神様ということになるでしょう。

このあたりまではすぐにわかることですが、では、キリスト教の神と原初格ではどこがどう違うのか。

この問題についてここで詳しく話すことはしませんが、こうしたことがらが「新しい人間学」にとっての喫緊の課題としてある、ということだけは今の段階で指摘しておきましょう。

では、今回の話はこのへんで。

30回


本講座「人間学の現在」は、今回が最終回になります。前回までの話でわたしがこの講座で語りたいと思っていたことはほぼ語り終えているので、今回は、次回からはじまる新しい講座の内容について話しましょう。

すでにお知らせしたとおり、新しい講座のタイトルは「文学と人間学」というものです。その講座も今のところ30回程度を予定しており、かなりの長丁場になりそうです。建築にたとえるならば、30階建てのビルを建てるようなものかもしれません。となると、はじめにしっかりとした設計図がなければなりません。設計図のないまま着工することはできませんから。

ということで、今回はその設計図の内容について話してみたいと思います。

文学とのリエゾンという方法


本講座で度々話題にしてきた菅野盾樹氏の『人間学とは何か』では、「人間学の方法」について次のような言及があります。

ところで、人間を科学主義で囲い込むことは実際には不可能である。人間の生が特殊な時代や特殊な場所の刻印をおびざるをえないのは当然のことである。また、人間は言語化しえない不合理な要素を抱えているし、数値化とは無縁な側面もそなえている。自然科学を模範とする科学主義には、自然科学的方法だけが妥当であるという含意(方法的一元主義)がともないがちである。学問の方法には文献学的方法や参与観察法、インタヴュー法などもあるが、それらは無視されてしまうか、価値が少ないものと見なされるのである。人間の全体像を解明するためには、明らかに、この方法的一元主義では間に合わない。人間が身体をそなえるかぎりは生理学が、集団として行動する限りでは統計学が不可欠であると同時に、人間の行為の意図や意味を了解することも必要である。人間学がつねに経験科学と協同し連携を保ちながら探究されるべきであるなら、人間学にとって好ましくもあり不可避でもあるのは、方法的多元主義なのである。(p24)

人間学にアプローチする方法にはさまざまなものがあり、それは一元的に決まっているものではない、ということですが、これはまぁ、当然といえば当然ですね。

この講座では、「情然の哲学」という新しい哲学を視野に入れることで、人間学の新しい地平を探ってみることにしました。これも一つの方法としてよかったのではないかと思っていますが、その作業が一段落したので、今度はまた別の角度から人間学にアプローチしてみようと思うわけです。

菅野氏の人間学研究においては、経験科学とのリエゾンの必要性が強調されています。経験科学とは、具体的には人類学や言語学や心理学などですが、わたしは次回からはじまる講座のなかで、人文科学とのリエゾンを試みたいと考えています。

人文科学にもさまざまな分野がありますが、なかでもわたしが関心を持っているのは、文学の分野です。プロフィールにも書いてありますが、わたしの大学時代の専攻は国文学でしたから、その分野において人間学というものを考えてみたいと思っているのです。

これまでのわたしの話のなかでは、「文学」はほとんど登場しませんでした。人間学の基礎づけのためにまずもって必要なのは哲学ですから、わたしは哲学(とりわけ「情然の哲学」)とのリエゾンにおいて人間学について考えてきたわけです。

それがわたしの人間学研究の基礎編であるとするならば、これからは応用編ということになるかもしれません。あるいは、総論に対する各論ということになるかもしれません。いずれにしても、これまでの考察をさらに深掘りしたいという気持ちから新しい講座をはじめることにしたわけです。

では、人間学が文学とリエゾンすることで、どのような成果が期待できるのでしょうか。

近代以後においては小説が文学の主要なジャンルになるので、ここでは小説を書く人間、すなわち小説家というものについて考えてみましょう。

小説家が書いた作品を人間学の見地から見るとき、それは、個人の作品であると同時に人類が生みだした作品であると見ることができます。

もしもどこかの星に人間と同じような知性を持った宇宙人がいるとすれば、彼らはわたしたちが書いた小説を「地球文学」のカテゴリーに入れることでしょう。

そしてもちろん、地球文学を鑑賞するのは地球人です。菅野氏の人間学によれば、わたしたち人類はホモ・シグニフィカンスですから、ホモ・シグニフィカンスがホモ・シグニフィカンスの作品を鑑賞するわけです。

ホモ・シグニフィカンスとしての小説家


ここでホモ・シグニフィカンスという概念を簡単に復習しておきましょう。

菅野盾樹氏は人間の存在をホモ・シグニフィカンスととらえ、その基本構造を「身体・言語・心」の三重構造とみなしました。

この術語を翻訳すると、「記号機能を営む人」(『人間学とは何か』p71)になります。

これは、デカルト以来西洋の哲学を支配してきた「心と体」の二元論では人間の存在は捉えられないという立場から出された新しい概念ですが、この思想は「心と言語の類比説」がベースになっています。

心は言語とほぼイコールであり(もちろん全く同じということではありません)、言語は人間の心にも体にも浸潤している、という考え方ですね。

これはたしかにとても興味深い考え方で、二項対立的な近代哲学のパラダイムを乗り越え、人間存在の真実に一歩近づいたような感があります。

ただし、わたしが思うに、この概念には少なくとも二つのウィークポイントがあります。

一つは、「記号機能を営む人」という定義では、わたしたち人間がその五感において日々感受しているクオリアの問題が説明できない、ということ。

もう一つは、わたしたちがそれぞれの個性において存在しているという事実が説明できない、ということです。人間の個性によってもクオリアの感じ方は異なりますから、やはり「個性」を無視して人間を論ずることはできないでしょう。

このあたりの問題を論ずると話が難解になるので深入りは避けますが、要するに、「ホモ・シグニフィカンス」は人間を哲学のフィルターを通して見た場合にそう見える、ということなのです。

そうした意味で、哲学の研究に従事する人たちは典型的なホモ・シグニフィカンスと言えるかもしれません。

彼らは、「記号機能」の代表格である「言語」を駆使して世界について考えようとしている人たちです。したがってもちろん、哲学には哲学としての意義があり、人間学の研究を進めるうえで哲学的な思考はまずもって必要なものだといえるでしょう。

しかしながら、哲学には哲学としての限界もあります。

それは、わたしたち人間が日々感じている「クオリアの実相」を言語によって究明することができない、という点です。

そこで登場するのが、小説家という存在なのです。

哲学者も文学者も、ともに言語を用いて著作活動をする点は同じですが、両者の言語の用い方には大きな違いがあります。

哲学者は抽象的な概念を用いて世界の本質について思考するのに対し、文学者はその作品のなかに具体的な人間を登場させます。

哲学者が描き出すのは抽象の世界であり、文学者が描き出すのは具体の世界です。

これは、概念の世界とクオリアの世界と言い換えてもいいかもしれません。

わたしたちは優れた音楽作品によって音のクオリアを堪能し、また優れた美術作品によって色彩のクオリアを堪能します。それと同じような意味で、わたしたちは優れた文学作品によって「人間世界のクオリア」を堪能するのです。

では小説家は、言語という「記号機能」を使ってどのようにして「人間世界のクオリア」を表現するのでしょうか。

それは、描写という方法です。

小説のなかには、風景描写や人物描写や心理描写があります。あるいは、人と人との会話があります。小説のなかの会話は現実の会話をそのまま写したものではないので(そこには必ず小説的な処理が施されています)、小説のなかの会話も作者による一種の描写だと考えてよいでしょう。

この描写という方法を駆使して作家はクオリアの世界を創り上げ、わたしたちはその世界を小宇宙として認識することになるわけです。

とするならば、文学者もまた哲学者と並んで典型的な「ホモ・シグニフィカンス」であると考えてよいでしょう。

では、文学と人間学のリエゾンの問題についてもう少し考えてみましょう。

人間学のテーマと小説のテーマ


『人間学とは何か』では、第7章以降、人間学にとって重要な五つのテーマが扱われています。すなわち、「〈人格〉としての人間」(第7章)、「子供と大人」(第8章)、「性を生きる人間」(第9章)、「人生の意味と無意味」(第10章)、そして「死」(第11章)です。

これらのテーマは人間学にとって欠かせないものですが、同時に文学の主要テーマであることも自明のことですね。

たとえば、小説のなかに登場する人物はみな個性ある人格を持っており、多様な個性が融和したりぶつかりあったりして物語が進んでいきます。

また、「子供と大人」というテーマも文学にとって重要です。日本の近代文学のなかにも「子供の成長」や「青年から大人への成長」をテーマとする作品は多く、一例として世間によく知られているものを挙げるなら、夏目漱石の『三四郎』(1908年)や、森鴎外の『青年』(1910年~1911年)や、志賀直哉の『暗夜行路』(1921年~1937年)や、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』(1934年)や、下村湖人の『次郎物語』(1937年~1946年)や、山本有三の『路傍の石』(1937年~1938年)や、井上靖の『しろばんば』(1956年)などがすぐに思い浮かぶでしょう。

それから、「性を生きる人間」というテーマも長らく文学のテーマとして扱われてきたものです。たとえば、大江健三郎(1935〜2023)には『性的人間』(1963年)という小説があるし、吉行淳之介(1924〜1994)は生涯を通じて人間の性の問題を小説のなかで扱っています。

というより、日本の現代作家のなかで性の問題を扱わなかった人のほうがむしろ少数派でしょう。

では、「人生の意味と無意味」というテーマはどうでしょうか。

こちらも言うまでもなく、文学のなかでよく扱われるテーマです。主人公が人生の意味を模索する小説などは無数にあるし、また、「人生これ無意味なり」と断じて自ら命を立つ事件なども小説のなかに多くあります(もちろん現実の世界にも多くあるでしょう)。

また、人間の「死」の問題についても同様です。死はわたしたちにとって避けられないものですから、これが文学のテーマにならないはずはありません。

いくつか例を挙げておきましょう。

森鴎外の『舞姫』(1890年)や、夏目漱石の『こころ』(1914年)や、有島武郎の『或る女』(1919年)や、武者小路実篤の『愛と死』(1922年)や、芥川龍之介の『歯車』(1927年)や、太宰治の『人間失格』(1948年)や、野間広の『崩壊感覚』(1948年)や、川端康成の『千羽鶴』(1949年)や、大江健三郎の『万延元年のフットボール』(1967年)や、村上春樹の『ノルウェイの森』(1987年)などです。

話をまとめてみましょう。

次回からはじまる新しい講座のなかでわたしが作家の業績に注目するのは、彼らが哲学者とはまた別の意味で典型的なホモ・シグニフィカンスとして活動しているからです。

しかも、作家たちは哲学者とは違って、わたしたちが日々感受しているクオリアの世界を作品のなかに描き出そうとしています。これは、物事をいちど抽象的な概念に還元してから思考を展開する哲学者にはできないことなので、わたしは哲学者よりもむしろ文学者に注目しているのです。

新しい講座の概要


最後に、次回からの講座で具体的にどの作家を取り上げるのか、あるいはどのようなテーマを扱うのか、ということについて話しておきましょう。

これはあくまで現時点での予定ですが、はじめに何回か日本の近代文学の諸問題をとりあげ、それから日本の古典文学の話へと移行したいと考えています。

ただし、時代の順に語るというわけではなく、話のテーマはその時々の判断で決めることになります。

ちなみに、わたしが今とりあげてみたいと思っている作家は、以下の人たちです。

夏目漱石・森鴎外・芥川龍之介・谷崎潤一郎・三島由紀夫・川端康成・大江健三郎・安部公房・小林秀雄・江藤淳・村上春樹など。

(おもしろいことに、夏目漱石から小林秀雄までの九人が東大出身であり、江藤淳が慶應、村上春樹が早稲田の出身です。また、現在生存しているのは村上春樹のみです。)

小林秀雄と江藤淳は文芸評論家ですが、近代文学の歴史に大きな足跡を残した人であるため、その功績を称えるという意味も含め、この二人の文人をわたしなりの視点から扱ってみたいと考えています。

また、古典文学においては、紫式部と清少納言、それから鴨長明と吉田兼好、和歌の分野では藤原定家、江戸文芸では井原西鶴と松尾芭蕉などをとりあげるつもりです。

(ただし、これらの人たちの作品をすべてとりあげると30回を優に超えてしまいますから、そのあたりは適宜調整することになると思います。)

考えてみると、人間学の研究において方法的な多元主義が打ち出されていながら、文学とのリエゾンのなかで人間学を語るといった試みはこれまでなかったように思います。

そういう意味では、「文学と人間学」には、人間学研究の新しい試みとしての意義もあるかもしれません。

結局、次回からの講座に何らかの独自性があるとすれば、それは、「文学談義と人間学談義の融合」ということになるでしょうか。

では、そういうことで。

次回、すなわち「文学と人間学」の第1回は、「作家たちの文明批評」というテーマで話してみようと思います。

そこでとりあげるのは、漱石や鴎外をはじめとする日本の近代作家たちですが、彼らは自分たちに与えられた時代をどのように受け止め、そしてどのように生きたのか、という点について考えてみたいと思います。

では、これをもって「人間学の現在」の講座をすべて終了したいと思います。

三年数ヶ月にわたってわたしの話におつきあいいただき、ありがとうございました。

次回からの新しい講座をお楽しみに。