人間学の現在(11回~20回)

11回


本講座も回を重ね、今回で第十一回となりました。

前回までは『人間学とは何か』を基本のテキストとして話を進めてきましたが、今回からは話のベースとするテキストが変わります。

わたしは前回までの講座で、人間学の発祥やその歴史、それから「ミニマム人間学」の功績や限界について話してきましたが、それらの話を土台としながら、今回からは、「人間」についてのさらに踏み込んだ論議をしていくつもりです。

この講座の全体を「序論・本論・結論」として捉えるとするなら、前回の講座をもって「序論」が終わり、これから「本論」に入ると考えてもらえればよいでしょう。

前回の講座で予告した通り、わたしはこれから一冊の書物を紹介しますが、それは、当会の人間学研究の成果をまとめたものです。

人間学を専門に研究している人はそれほど多くないにしても、日本には現在、「人間学」を研究する機関はいくつか存在します(ちなみに「人間科学」の看板を掲げる研究機関はたくさんあります)。日本人間学会もそのうちのひとつですが、当会には独自的な研究の領域が存在しており、わたしがこの講座のなかでみなさんに紹介したいと思うのも、そのような、当会ならではの研究内容です。

では、それはどのようなものでしょうか。

それは、存在論に関する新しい知見を含んだ内容であるため、「かくかくしかじかのもの」と簡単に定義することはできません。したがって、今後、ある程度の時間をかけて説明していく必要があります。

たとえ哲学の分野であるといっても、現代における存在論の問題は、先端的な科学の知見を抜きにして考えることはできません。科学とは別の場所で構築された形而上学的な存在論であれば、これまでにもあまたありましたが、それらは到底、「新しい人間学」の土台となりうるものではないのです。

ですから、これからわたしがみなさんにお話しする内容は、科学と哲学と宗教の分野を横断、もしくは縦断する内容となります。

いずれにしても、当会が独自に研究してきた「新しい存在論」は、実際に語ってみないことにははじまらないので、これから「本論」に入っていこうと思うわけです。

では、まえおきはこれくらいにして、今回からテキストにする著作を紹介しましょう。

書籍のタイトルは、『情然の哲学』。サブタイトルは、「ゆらぎから流れへ 存在とクオリアの根源に迫る」というものです。

「情然」という新しい発想


ご存知のように、哲学書と言われるものは世の中に数多く存在します。「〇〇の哲学」というタイトルの書籍も、別段珍しいものではありません。しかしながら、「情然」という用語は、誰にとっても初めて聞くものではないでしょうか。
この用語の意味するところのものを正しく把握すると、世界に対するものの見方が劇的に変わります。

少なくとも、わたし自身はそうでした。

ですから、この先進性に富んだ書物の内容を、わたしは多くの人に知ってもらいたいと思っているのです。

ただし、この書物も『人間学とは何か』と同様、読めばすぐにわかるといったものではありません。いろんな意味で水準の高い書物ですから、挫折することなく読み解いていくには、やはり案内役が必要です。もちろん、その役にわたしが適任かどうかは分かりません。ただ、この書物はまだ世の中にあまり知られていないので、同じ学会のなかにいるわたしがとりあえずその役を務めようと思っているわけです。

この書物の全体像を把握してもらうために、さしあたり目次を紹介しましょう。

序章 存在の理由/究極的難問への挑戦
第1章 自分とは何か/自分が自分であることの不思議さ
第2章 原初のゆらぎ/あってあるもの」とは
第3章 存在の構造/「ゆらぎ」から「流れ」へ
第4章 愛と自由と生命と理想/偶然と必然の躍動する世界
第5章 概念から物質そして人間へ/三次にわたるビッグバン
第6章 人生の目的/「私」が存在する理由
第7章 世界平和に向けて/いま私たちにできること
第8章 日本の使命と役割/「和」と「道」が織り成す日本文化
終章 これからの百年・千年紀に向けて
 用語解説/あとがき/参考文献/プロフィール

ご覧のように、この書物にはそれぞれの章にタイトルとサブタイトルがあります。また、引用した目次には入れていませんが、それぞれの章には小見出しがあり、それらが「節」(セクション)を形成しています。

これらの小見出しを見ると、自分たちがこれまで知りたくても知ることのできなかった内容(「世界の存在の謎」とでも言うべきもの)が解き明かされているのではないか、という印象を受けます。

この書物が実際にそういうものであるかどうかは読んでみれば分かることですが、ここでは紙数の都合上、この哲学のかなめとなる「情然」という概念のみを見てみましょう。

【情然 情然の場 情然の海】
何ものにも規定されない偶然性が支配するエネルギーの場を表す「情然の哲学」独自の造語。
あらゆる存在の根源として、宇宙始源から未来永劫にわたって宇宙全体に遍在する。
物理学でいう「真空エネルギーの場」と同じものを指しているが、無機的なエネルギーではなく、情的・有機的エネルギーの場である。それゆえ偶然性の中にありながら、最終的には「快」の方に向かう必然性を内包している。

「存在」の出発点を「情然」という新しい概念を用いて定義することで、著者は、人間の基本構造のみならず世界の基本構造まで理路整然と説明することのできる画期的な視点を獲得したようです。

ある思想体系を評価する尺度のひとつに、それぞれの思想が持っている「射程距離」というものがあります。ほとんどの思想には、「その説明では処理しきれない現象」というものが必ずあるわけですから、「射程距離」(説明できる現実のカバー率といったようなもの)が長ければ長いほど優れた思想ということになります。

『情然の哲学』に関して言うと、これほど長大かつ深遠な射程距離を持った思想にわたしはこれまでお目にかかったことがないので、「この思想はみんなで大事に育てていったほうがいいだろう」と思ったわけです。

なぜ『情然の哲学』なのか


最後に、わたしがこの著作に注目しているもうひとつの理由について話しておきましょう。

第9回の講座で、わたしは鈴木孝夫教授の仕事について触れましたが、思い返してみると、わたしが哲学・思想の分野に興味を持ったのは高校時代のことでした。

大学で文学や哲学を専攻する男子学生は昔も今も少数派ですが、周囲の人たちから「就職に不利だからやめておけ」という忠告を繰り返し受けながらも、わたしは文学部に進学しました。世界の成り立ちを矛盾なく説明できるグランド・セオリーというべきものがこの世のどこかにあるのではないか、という期待感をおぼろげながら持っていたからです。

そのような期待感は、実際のところ、哲学や思想を学べば学ぶほど打ち砕かれることになりましたが、わたしにはかなり以前から、ポストモダンの時代もやがては終焉を迎えるだろうという予感がありました。

わたしはここで、ポストモダンという用語をかなり自己流に使っていますが、わたしは人類の思想史に関しては、次のような時代区分をしています。

  • ギリシア哲学の発祥から中世のスコラ哲学までの時代が、プレモダン。
  • デカルトの哲学からカントの哲学を経由してヘーゲルの哲学にたどり着くまでの時代が、モダンの前期。
  • ヘーゲル哲学の批判からいくつかの哲学が起こり、キルケゴール・ニーチェ・フッサール・ハイデガーらの思想を経由してサルトルの実存主義哲学にたどり着くまでの時代が、モダンの後期。
  • 構造主義・ポスト構造主義の台頭により、それまでの思想史の全体が相対化され、「真理探求」の営為自体が否定的に見られるようになった時代が、ポストモダン。


ポストモダンの時代は、冷戦が終わる1980年代の後半からはじまっているとわたしは考えていますが、この時代も30年から40年程度で衰退し、次のものに移り変わっていくだろうとわたしは思っていました。

では、ポストモダンの次にはいったいどのような時代が到来するのでしょうか。
わたしはそれを、トランスモダンの時代、というふうに考えています。

トランスモダンの思想の特徴をひとことで言うとすれば、それは「統合」です。
「統合」をテーマとする思想書は最近かなり目立ちはじめており、このキーワードは今後、時代のトレンドになっていくかもしれません。

そのような時代の流れから、わたしはヌーソロジーという思想にも注目していますが、この思想を提唱した半田広宣氏は、次のようなタイトルの書籍を刊行しています。

 『2013:人類が神を見る日』(1997年刊行)
 『2013:シリウス革命』(1999年刊行)
 『2013:光の箱舟』(2001年刊行)

ヌーソロジーにとって2013年という年は、歴史のターニングポイントというべきものであったようです。

ヌーソロジーのみならず、「神」や「霊界」や「宇宙意識」に通じている(とされる)人たちがみな異口同音に2013年の重要性を語っているのは、不思議といえば不思議です。それらの人たちはべつに、相互に連絡をとりあって口裏を合わせているわけではないのですから。

(ちなみに、ヌーソロジーについての解説はここでは行いません。インターネットで検索するといろんな情報が得られるので、各自でお調べ下さい)。

「2013年に何かが起こるとすると、思想界にも新しい時代の到来を告げる新しい哲学が現れるかもしれない」

わたしはかなり以前からそのような予感を持っていましたが、2014年の秋、そんなわたしの目の前にあらわれたのが『情然の哲学』だったわけです。

「トランスモダンの哲学書がこんなかたちで現れても、何の不思議もないだろう」

『情然の哲学』を読み進めながら、わたしはそんなふうに思いました。

そして、この書物の第3章の末尾にある次のくだりを読んだときに、わたしは何かとても腑に落ちるものを感じたのです。

こうした内容は科学的な推論によって得られたというより、どちらかというと啓示的に与えられたものである。あるいは芸術的に直観されたといってもいいかもしれない。そのような世界を一枚の絵や映画のようにビジョンとして見せられたというのが、私の正直な実感だ。その啓示的直観を、科学や哲学、神学などの専門家たちと議論しながら検証したのが情然の哲学である。(『情然の哲学』p147)

では、次回からいよいよ、『情然の哲学』の中身に踏み込んでいきたいと思います。

※トランスモダンについては以下の解説が参考になります。
【トランスモダン】

近世から現代にいたる思想、習慣、表現手法などを包括するモダニズムを総合的に反省し、その負の要素を排除し、さらにきたるべき新しい時代の人間、社会に関する新しいモダニズムを構築する方法、運動。「トランス」とは、越えて、横切ってなどの意味。したがってトランスモダンとは、現代にいたる200年にわたって蓄積してきたところの多方面のモダンを横並びにして、それを横切り、かつ徹底的に分析、批判し、それを統合することによって過去のモダニズムをこえ、未来のあるべきモダニズムを構築することとなる。(ブリタニカ国際大百科事典)

12回


今回から数回にわたって、『情然の哲学』について解説します。

わたしなりの視点からの解説なので、至らない点があるかもしれませんが、その点はあらかじめご了承ください。

この書籍は、入手してもらえればそれに越したことはありませんが、なければないで結構です。

哲学の原点回帰


わたしが通っていた中学の校歌には「真理の光身に受けて」という一節がありましたが(いまでもわたしの母校ではこの校歌が歌われています)、「この学校でほんとうに真理が学べるのだろうか」という疑問を中学生のわたしは抱いていました。

たしかに、中学で学ぶ理科や数学は科学的真理の一部かもしれませんが、歴史を学んでみると、人類の歴史は血にまみれた闘争と殺戮の繰り返しです。真理がないから人々は憎み合い争い合うのではないかと、わたしには思えてなりませんでした。

「とんでもない世界に生まれて来ちゃったな。ひょっとすると、ここは真理のない世界かもしれないぞ」と、中学生のわたしは心ひそかに思っていたものです。

案の定、高校に行っても大学に行っても、宇宙の真理を教えてくれる先生はわたしの前に現れることはありませんでした。

真理がないので人々は真理を探求してきたのかもしれませんが、人類の真理探求のその努力については、大いに認めるべきでしょう。

たとえば、古代のギリシア哲学。それから、古代中国の諸子百家と呼ばれる人たちのさまざまな世界観や人生観。

話を哲学に限っていえば、人類における哲学の発祥の地はギリシアであり、ギリシア哲学の発端は、自然哲学と呼ばれるものでした。

けれども、当時はまだ科学のない時代でしたから、「世界は何によってできているか」という問題に誰も答えを出すことができませんでした。

そのため自然哲学はほどなくして停滞し(いろんな説が出されても検証のしようがありませんから)、ソクラテスの登場などもあり、その後の哲学者たちの関心は人間学的なテーマに向かうことになります(ソフィストの哲学については省略します)。世界の根源は何か、という問いかけから、人間とは何であり、どう生きることがよいことなのか、という問いかけに人々の関心がシフトしたわけです。

だいぶあとになってから、「世界は何によってできているか」という自然哲学の課題は、自然科学が引き受けることになります。

ところが、自然科学は「なぜ」を問うことができないので、科学的な手法で「物」の世界をどこまでも探究していくと、究極の存在は「エネルギーの揺らぐ真空の場」だった、という謎めいた話になってしまいます。

自然科学は「神」の問題を扱うことができませんから、その「真空」の背後に「神」がいるのかいないのか、そういうことは分かりません。

それで、哲学は哲学、宗教は宗教、科学は科学、ということになってしまったわけですね。

話を戻して、自然哲学についてもう少し詳しく見ていきましょう。

自然哲学については、高校で履修する「倫理」の教科書にも記述があります。
引用してみましょう。

紀元前6世紀の初め小アジアのイオニア地方に建設されたギリシア人の植民都市で、自然のすべてのものが生まれてくる根源(アルケー)とは何か、を探求する自然哲学が誕生した。
自然哲学の祖とされるタレスは「万物の根源は水である」と説き、その根拠の一つとして、水が種子の発芽をうながすことをあげている。ヘラクレイトスは、すべてを焼きつくす火がすべてを生み出す根源であると考えた。彼は「同じ川の水に二度と足を入れることはできない」と語り、万物はとどまることなくたえず変化すると考えて、「万物は流転する」と説いた。エンペドクレスは、土・水・火・空気の四つの元素が、愛によって結合し、憎しみによって分離して万物が生成すると説いた。デモクリトスはそれ以上分割不可能な原子(アトム)の結合と分離によって、万物が生まれると説いた。
このように自然哲学は、世界の成り立ちを神話にたよらず、理性(ロゴス)によって筋道をたてて合理的・統一的に説明しようとした。哲学は、このような自然の根源についての問いかけからはじまったのである。(山川出版社『現代の倫理』p28〜29)

「哲学は、このような自然の根源についての問いかけからはじまったのである」という箇所はとても重要です。

トランスモダンの哲学がもしもあるとすれば、それはわたしたち人類が「世界に対して初めに抱いた疑問」に対し正面から答えを出すものでなければならないからです。

「倫理」の教科書の28ページには、自然哲学者の主張を一覧にした表が掲載されています。

それは次のようなものです。

  • タレス 水
  • ピタゴラス 数
  • ヘラクレイトス 永遠に燃える火
  • パルメニデス 有りて有るもの
  • エンペドクレス 土・水・火・空気
  • デモクリトス 分割不能な原子


では、この表の末尾に、「勝本義道 情然」という一列を加えたらどうでしょうか。

自然哲学者たちの出現と勝本氏の登場のあいだには二千数百年という時間の隔たりがありますが、もともと人類の思想史の発展とはそういうものであるのかもしれません。

138億年といわれる宇宙の歴史に比べれば、二千数百年という時間は小さなものであるともいえますね。

ただし、自然哲学者と勝本氏のあいだに「アルケー」の問題について正面から取り組んだ哲学者がまったくいなかったのかというと、決してそうではありません。

哲学者と呼ばれるひとたちはみな多かれ少なかれ、「宇宙の根源」について思いを巡らせていたと思いますが、このテーマに関してわたしたちがすぐに思い浮かべる哲学者といえば、やはりライプニッツでしょう。

ライプニッツ(1646年〜1716年)は「倫理」の教科書にもかならず登場する有名な哲学者ですが、残念ながら、その哲学の中身に関する説明はほとんどありません。

そこで、「哲学叢書」としても役に立つ岩波文庫を調査してみると、この哲学者には『モナドロジー』が目録のなかにあることがわかります。

岩波文庫は各分野の古典作品を集めた文庫ですから、人類の知的遺産の集大成と見ることもできます。作品の巻頭や巻末にはおおむね、識者(多くの場合その分野の第一人者)による解説がついているので、ライプニッツの生涯の歩みやその哲学の概要について学びたい方は、岩波文庫版の『モナドロジー』を一読するとよいでしょう。

ありがたいことに、岩波文庫の『モナドロジー』はつい最近(2019年4月)新訳が上梓され、とても読みやすいものになりました。巻末には「訳者あとがき」としてモナドについてのわかりやすい解説も付属しているので、引用しておきましょう。

モナドは、古代ギリシアのピュタゴラス派以来の概念であり、すでにプラトンの『パイドン』や『ピレボス』に用いられている。16世紀後半になると、いろいろなモナド論が構想されている。ジョン・ディーは、万物を象徴的に集約するモナドの構想をもち、『象形文字のモナド』を著し、17世紀初めのカバラ的神秘主義の流れにも大きな影響を与えている。哲学史を見るとモナドは、ニコラウス・クザーヌスやジョルダーノ・ブルーノにおいて、世界を構成し、世界の多様を映す一なるものと捉えられている。ブルーノは、宇宙を構成する単純な要素として、モナドどうしの結合から宇宙のさまざまな在り方を説明する。ただし、そうしたモナドそのものは不滅であった。ケンブリッジのプラトニストたち、ヘンリー・モアやファン・ヘルモントは、宇宙を構成する動的・心的要素と解して、これらモナドが宇宙的神性に対して有機的関係に立ち、神性を自らにおいて現すとした。こうした諸原理を継承しつつライプニッツは独自の形而上学を組織する。(p240~241)

これを読むと、ギリシア哲学のアルケーの問題は、西洋哲学の歴史のなかに脈々と受け継がれてきたことがわかりますね。

ライプニッツは、その伝統の流れを受けてアルケーの問題に取り組み、新たな活路を見出しますが、モナドはそもそも物理的に存在するものではないので、彼の仕事は結局、一つの形而上学の構築にとどまります。『モナドロジー』はよくもあしくも哲学であり、それ以上のものではありません。ただ、時代的な制約を考慮に入れるならば、まだ近代の初期であったあの時代に世界の根源についてあそこまで考えたわけですから、やはりライプニッツは偉大だということになります。

20世紀に入り、科学の分野に量子力学が登場して、わたしたちはようやく、ミクロの世界を共通の言語で記述できるようになりました。しかしながら、では科学の発達によってアルケーの問題に答えが出るかというと、そういうものでもありません。「物質の根源」と「世界の根源」が同義のものであるとはかぎらないからです。

「情然」という概念は、自然科学のなかから生まれたわけではないし、哲学のなかから生まれたわけでもありません。いわんや、宗教のなかから生まれたわけでもありません。

どこの分野のなかにもなかった新しい概念が、あるときひとりの人物の頭のなかに宿り、その概念を言語化すると「情然」というものになった、というのが、ことの真相ではないかとわたしは考えています。

そのため、なぜ「アルケー=情然」なのかをわかりやすく説明することが、今後のわたしの任務となります。

もちろん、その説明はすでに『情然の哲学』のなかにありますが、それは誰にもわかるレベルのものではありません。そこで、わたしは、この講座のなかで「情然」の概念を噛み砕いて説明し、人々がこの新しい哲学について学ぶきっかけをつくりたいと思うわけです。

『情然の哲学』の功績


アルケーの問題は、科学の問題であるとともに哲学の問題です。

宗教、とりわけキリスト教では「アルケー=神」ということがすでに定まっていますが、なぜそうなのかという問題についてはまったく答えることができません(答えようとする発想自体がありません)。たとえば、アウグスティヌス(354年〜430年)は「神の無からの創造」を説きましたが、そうすると「アルケー=無」ということになり、科学的な思考が不可能になってしまいます。

また、先にも述べましたが、現代の科学を極めれば「世界の根源」が分かるわけでもありません。

科学の分野にも多くの学説があり、研究の領域が細分化すればするほど、そこから生まれる理論はより複雑なものになります。

専門家でなければわからないような理論のなかに「真理」(アルケーが何であるかという解答)が隠されているとすれば、ほとんどの人は真理から疎外されていることになりますね。

科学と宗教と哲学のいずれの分野にも深い洞察を投げかけながら、当の著作そのものはいずれの分野にも属さないところに、『情然の哲学』の魅力があるといってよいでしょう。

また、アルケーの問題を解き明かしたこともこの著作の功績の一つですが、わたしが思うに、『情然の哲学』には多面的な功績があります。それらを箇条書きにまとめると、以下のようなものになるでしょう。

  • 自然哲学のアルケーの問題に対して、一つの答えを出したこと。
  • ソクラテスの人間学的な問題提起に対して、一つの答えを出したこと。
  • 菅野盾樹氏の「ミニマム人間学」の限界に対して、新しい道を開いたこと。
  • トーマス・クーンが提起した「共約不可能性」の問題に対して、その解決の道を示したこと。
  • 中身が定かでないトランスモダンの理念に対して、その具体的な思想内容を示したこと。


これらの功績の詳細については、この講座の今後の話のなかで折に触れ言及する予定です。

次回は、「アルケー=情然」であることの理由について説明します。

13回


今回は、『情然の哲学』の主要概念である「情然」について、わたしが日頃考えていることを話してみたいと思います。

この概念はとても奥が深いため、不用意に掘り下げていくと深みにはまり、難解な議論になってしまう危険性もあります。

そのため、まずは、わたしたちが日ごろ身近に経験していることから話していくことにしましょう。

点と線と面と立体


上記の見出しにある「点・線・面・立体」については、わたしたちは小学生のときに学んでおり、誰もが理解していることがらのひとつとなっています。

ですから、そこに何かしらの神秘を感じる人はおそらくいないでしょう。ところが、この四つの存在について哲学的に考えてみた場合、点と線と面は概念上の存在であり、わたしたちが生きているこの世界に実在するものではありません。

このことは、ちょっと考えてみるとすぐにわかりますね。

小学校では、「線は点を集めたもの」と学びますが、これはあくまで子供向けの説明であり、「とりあえずそう理解しておけばいい」という教育的な配慮を含んだ説明です。点にはそもそも長さがありませんから、長さがゼロのものをいくら集めても、そこから長さのあるものが出てくることはないのです。

同様の理由で、面は線を集めたものではないし、また、立体は面を集めたものではありません。

そもそも、この世界は時間と空間によって成立しており、空間のなかには、縦・横・高さを属性にもつ三次元のもの(立体)以外存在することができません。

実際、筆記具で点を書いてみても、そこにあるのは立体であり(顕微鏡で見ると長さや高さを測定することができます)、その立体の長さや高さを考えないことで(あるいはないものとすることで)、わたしたちはその立体を「点」として扱っているわけです。

とするなら、この世界をいくら分割しまた縮小したとしても、その最終的な形態が「点」になることはない、ということになります。

では、この世界の初めにあったものとは何だったのでしょうか。また、この世界の最小単位とはいったい何なのでしょうか。

これはいわゆる、わたしが前回の講座で俎上に乗せたアルケーの問題ですが、このあたりの問題についてもう少し掘り下げてみることにしましょう。

数字と文字と音符


小学校の算数でいちばんはじめに学ぶのは、自然数というものです。指の数を数えると5本あり、右手と左手の指を合わせると10本になります。これが、わたしたちにとっていちばん身近な自然数です。

それが証拠に、低学年の児童たちは、指を折ったり伸ばしたりしながら足し算や引き算をしますね。

子供たちはそれから、筆算を学び、九九を学び、小数を学び、そして分数を学びます。たとえば、10÷3の計算では「割り切れない」という問題が発生しますが、子供たちは分数を学ぶことでこの問題に対処します。

また、自然数に0という数を加えることで、整数の概念も学びます。

小数と分数と整数を学ぶことで、日常生活で必要な計算の大半はできるようになるわけです。

また、国語の時間では、子供たちは文字を学びます。小学校に上がる時点で話し言葉は相当数覚えていますから、その土台のうえで、書き言葉を学んでいくわけです。

わたしは今でも、小学一年の最初の国語の授業を覚えていますが、教科書の最初のページには、「見える見える」とありました。その文字が右ページの上のほうに大きく書いてあり、見開き2ページにわたって街の風景が広がっていました。
何が見えるかな、と、先生が質問を投げかけると、子供たちは元気よく手を挙げて答えます。山が見えます、川が見えます、学校が見えます、公園が見えます、というように。

生まれてから数年間の生活のなかですでに習得している話し言葉をもとにしながら、子供たちは読み書きの勉強をはじめるわけです。

文字の学習はどこがスタートラインかというと、もちろん、「あいうえお」ですね。

算数で学ぶ「12345」と、国語で学ぶ「あいうえお」と、音楽の授業で学ぶ「ドレミファソラシド」は、ある観点から見ると、じつは同じ原理に基づいたものと考えることができます。

では、その「同じ原理」とはどのようなものでしょうか。

答えを言いましょう。

わたしたちが日ごろ身近に接している「数字と文字と音符」は、すべて「差異の原理」によって成立し、機能しているのです。

「あ」や「い」や「う」は、それ自体としては何を意味するものでもありません。たとえば、人の口からいきなり「あ」という声が発せられたとしても、その人が何を言いたいのかはわかりませんね。

「あ」という文字は、それ自体として何を意味するものでもありませんが、「い」や「う」ではない、というアイデンティティは持っています。すなわち、「あ」という文字は、五十音のなかでの自分の位置を「あ」として持っており、全体(五十音)との関係のなかで「あ」として存在しているわけです。とするならば、「あいうえお」をはじめとする日本語の元素は、そのおのおのが五十音(およびそれぞれの音に対応する文字)のなかでの差異によって成立していることになります。

ごく簡単に言うと、これが「差異の原理」というものです。

差異があるから意味が生まれ、意味があるから認識が生まれ、認識があるから存在が生まれる。

これが、「差異」と「存在」の間にある因果関係ではないかと、わたしは考えているのです。

結局のところ、「12345」も、「あいうえお」も、「ドレミファソラシド」も、あるいは「ABCDEFG」も、そこに働いているのは「差異の原理」であり、それ以外のものではありません。

以前の講座で、わたしは鈴木孝夫教授の著書を引用し、「言葉がものをあらしめる」という話をしましたが、考えてみると、文字も、数字も、記号も、音符も、すべて「差異」によって成立しているわけですから、より普遍的な言い方をすると、「差異がものをあらしめている」ことになります。

ところで、数字や文字というものは、そもそもわたしたち人類が世界認識のためのツールとして生み出したものです。わたしたちは言語や記号によって世界を「分節化」し(さまざまな事象を概念に還元して把握するといったほどの意味です)、万物の霊長として、地球という星に文明社会を築き上げてきました。そういう意味では、菅野盾樹氏が指摘するように、わたしたち人類はたしかに「ホモ・シグニフィカンス(記号活動を営む動物)」であるといえるのです。

では、この「差異」の問題についてもう少し掘り下げて考えてみましょう。

数字は純粋に「量」を表す記号ですから、数字を例にとり、数と数の「間にあるもの」について考えてみると、少し不思議な世界が見えてきます。

数の「隙間」問題


わたしは文系の人間なので、数学をとことん学んだわけではありません。高校三年になって文系の進路を選択したため、数学ⅡBまでは学習しましたが、数学Ⅲは学んでいません。そのため、数学の分野において、わたしのなかで未解決のままの問題がいくつかあります(今からでも学べばいいのですが、なかなかそこまでの時間がとれない状態です)。そのうちの一つが、数の「隙間」問題というものです。

数直線上の数を整数に限定して考えた場合、ある数の隣にある数はすぐにわかります。たとえば、5の右隣りにある数は6であり、左隣りにある数は4です。また、数と数の間にある距離も、引き算を使えばすぐに求められます。たとえば、6から9までの距離は3ですね。

ところが、整数という条件を外してしまうと、「ある数の隣りにある数」は数字で表すことができなくなります。たとえば、5と6の間には、5.1や5.01といった小数が無数にあるため、「5のすぐ隣りにある数」は表記できないし、表記による数の特定ができないのであれば、そもそも「ある」と言えるのかどうかも分かりません。

高校の数学の教科書には、「有理数+無理数=実数(数直線上にある数)」という説明がありましたが、無理数とはすなわち循環しない無限小数のことですから(循環する小数であれば分数で表記することができます)、そうした数は表記することができません。

数直線上にありながら数字で表記することのできない数(無理数)があり、有理数だけでは数直線が隙間だらけになるという事実は、わたしたちにいろんなことを考えさせてくれます。

たとえば、ルート2は無理数であり、数字では表記できませんが、ルート2にルート2をかけると2という整数が出現します。無理数を二乗すると、そこから有理数が出てくるわけです。

循環せずに無限に続く小数を二乗すると、小数点以下の無限に続く数字がそっくり消えてしまうのですから、これは、不思議といえば不思議です。また、数直線のなかには無数の無理数があるということも、不思議といえば不思議です。高校生のわたしはこのような現象について「なぜなのか」と哲学的に考えてみましたが、結局答えは出ないままに終わりました。

ここで、「アルケー」の問題に戻り、「世界の初めにあったものとは何か」という問題について再び考えてみましょう。

「差異」と「間」と「関係」と「場」


以上見てきたように、有理数の範囲で数の並び(数列)について考えてみると、数と数は明らかに離れて存在しています。そのため、頭の中である特定の数を想定した場合、その数は他の数とは違うというアイデンティティを持ち、「差異」の原理によって存在していることがわかります。

しかしながら、差異の原理が発動するためには、その数は他の数と関連づけられていなければなりません。たとえば、先に例に挙げた5という数は、他の数との関係のなかで初めて「5」であることができるわけですね。もちろん、他のすべての数においても事情は同じです。

したがって、アルケーについて考える際には、「差異」や「間」や「関係」という概念が重要になってきます。現代に生きるわたしたちは、これらの概念を抜きにして存在の問題を考えることができないのです。

面白いことに、現代の物理学においても、ミクロの世界を考える際には、これらの概念が必須のものとなります。

わたしたちが日頃接している物質というものは結果的な存在であり、原因的な世界においてはモノの姿もモノの性質も見当たらないというのが、今の科学の常識です。

ですから、アルケーは少なくともモノではありません。とするなら、分子や原子はもとより、原子を構成している素粒子ですらないということになります。

紙数も尽きてきたので、そろそろまとめに入りましょう。

世界の初めにはある何らかの「量」があり、人類はその(完全には理解できない)「量」を分節化して「数」や「文字」を生み出し、その数や文字をさまざまに利用することで世界を把握することができる存在となった。

おおざっぱに言うと、そういうことになります。

そうなると、「はじめにあったもの」とはあるなんらかの「量」であり、その量はある何らかの「場」として存在していた、ということになります。

「情然の哲学」では、はじめにあったものは「情然の場」であると定義していますが、なぜ「情然」なのかということについては(そしてなぜ「場」なのかということについては)、さらなる説明を必要とします。

「情然」とは、「情」+「然」を意味する造語ですが、そもそも「情」とはいかなるものなのでしょうか。

次回は、そのあたりのことについて考えてみることにしましょう。

14回


今回は、「情とは何か」という問題をテーマに、わたしが日ごろ考えていることを話してみたいと思います。

喜怒哀楽の感情は、人間なら誰もがもっているものですが、心のなかでたえず揺れ動いている「情」とは何なのかとあらためて考えてみると、簡単には答えの出ない問題であることがわかります。

「情」と「心」のトートロジー


「情とは何か」という問題に対し、てっとり早く答えを知りたいのであれば、やはり国語辞典を引いてみるのがいちばんでしょう。

辞書はもちろん万能のものではありませんが、それでもなにかしらの探求の糸口はつかめるかもしれません。

そこで、「情」についていくつかの辞書を引いてみると、どれも同じような説明になっていることがわかります。たとえば、「情とは心の働きの一つである」といった説明です。その程度の説明であれば誰もがわかっていることですが、国語辞典ですからそれ以上踏み込んだ説明はありません。

ただ、「情」を説明するのに「心」の概念が必要であることはわかるので、今度は「心」を辞書で引いてみると、「知情意」の概念が説明のために使われていることがわかります。

となると、それはやはり、トートロジー(同語反復)ということになりますね。
わたしたちが物事を考える際に必要となるさまざまな概念の最も基本的なものは、辞書を引いてみると、大体はトートロジーになっています。たとえば、辞書で「存在」を調べると「あること」といった説明と出会い、「ある」を辞書で調べてみると、「存在すること」という説明に出会うことになります。要するに、たらい回しにされてしまうわけです。

(ちなみに、わたしたちはみな特別な学習をしなくても「存在」の意味をわかっていますが、このような状態のことを哲学では「存在了解」と呼んでいます)。

「情」と「心」の関係も同じ構造になっており、おたがいの説明におたがいの概念が必要とされます。もっとも、「そんなこと説明しなくてもわかるだろ?」というのが世間の常識ですから、「基本概念のトートロジー問題」というのは、あまり問題とされないわけです。

情の種類(もしくは様態)にはさまざまなものがありますが(喜怒哀楽はその代表的なもの)、その本質をひとことで言い当てる概念は、おそらく存在しません。辞書にあるように、それが「物事に感じて起こる心の働き」であることはわかりますが、では、その「働き」(より具体的には「動き」)こそが情の本質なのかというと、おそらくそうではないでしょう。

情の本質的な属性として「動き」があることは確かですが、それでも「何が動いているのか」という問題は残ります。もちろん、「動いているのは情だ」と説明したらトートロジーになってしまいますから、情という概念を、「心」や「物事」や「感じる」や「動き」の概念を使わずに説明することは、ほとんど不可能なのです。

そのため、ここではとりあえず、「情は情である」というトートロジーに甘んじることにして(すなわち情の本質論の問題は保留にして)、情の変化の問題について考えてみましょう。こちらのほうは、情の「本体」(そのようなものがあるかないかという問題も含めて、の話ですが)について考えるよりも易しいかもしれません。

先にも述べたように、喜怒哀楽というものは、誰もが日常的に経験しているものです。それは、つねにさまざまに変化している「情」の一つの様態であると考えられます。同じ「情」であっても、たとえば「うれしい」と「かなしい」は極と極を形成しており、存在論的に見ると、この二つの感情は相互補完の関係になっています。

このように正反対のものでありながら、なぜ根本的にはひとつのものであるといえるのかというと、それは、その主体がつねにひとつのものに定まっているからでしょう。簡単に言うと、それらは「わたしはうれしい」とか、「わたしはかなしい」と表現されるべきものなので、「情」はつねに「わたし」(自己意識)と共にあるという点で、一元的なものとして理解されるのです。

デカルトは、人間が普遍的にもっているものは「良識」だと言いましたが、そのとき以来、西洋の近代哲学の主流は「知の探求」となりました。ところが、その方向の哲学では人間性の根本問題が見落とされることになります。なぜかというと、人間の心の知的な機能を担保しているのは「情」の働きにほかならないからです(知と情の関係についてはのちほど詳しく説明します)。

ですから、「情」についての哲学的考察が本来ならもっとなされるべきであったのですが、おそらく、「情」と「心」のトートロジー問題が大きな壁となり、「情」の哲学はほとんど進展しなかったのかもしれません。

ただ、「情」の定義がトートロジーになるからといって、それがわたしたちにとって理解不能のものだというわけではありません。

それどころか、この「情」こそ、わたしたちが日ごろ直接的に経験しているものであり、ほかの何よりも確実に理解できるものであるといえるでしょう。

人間の特徴には「二足歩行」や「言語の使用」などが挙げられますが、新生児はそのどちらもできません。それでもやはり、赤ちゃんは人間ですね。

赤ちゃんがよく泣くのは、やはり赤ちゃんなりの情の働きでしょう。言葉を知らない赤ちゃんでも、母親にあやされれば笑います。「知」や「意」のない状態でもやはり心の働きはあり、その本質は「情の動き」ではないかと考えられるのです。

「ありのままの事実」としての「情」


ここでもう一度、「情」がもっている辞書的な意味の問題に戻ってみましょう。
「情」の類義語としてすぐに思い浮かぶのは、「感情」や「心情」ですが、「情」にはじつは、「心」とは関連のない意味も存在します。

たとえば、集英社の国語辞典を引いてみると、「情」についての五番目の意味として、「ありのままの事実」という説明があります。そして、そこには次のようなことばが例として挙げられています。

「情況、情状、情勢、情態、国情、実情、世情、敵情、内情」。

これらの用語を見れば、たしかに、「情」という漢字が「ありのままの事実」として使われていることがわかりますね。

たとえば、ある社員が「うちの会社の実情は」などといえば、外からは見えないその会社の「ありのままの事実」の話がはじまることになります。わたしたちは普段あまり意識しませんが、しばしば「情」ということばを「事実」や「真実」の意味としても使っているのです。

もう一つ例を挙げてみると、「ちょっと事情があって」という言い回しもそうです。「ちょっと事情があって今回は参加できません」などというフレーズは、つね日頃よく使われます。この場合の「情」は、「当人が直接関わっている事実」というニュアンスがあり、裁判では「情状酌量」ということばもよく使われます。

それからまた、現代社会を語るキーワードとしての「情報」ということばも、「事実を伝える」という意味として理解することができますね。

さて、わたしたちはこれまで「情」ということばの意味について考えてきましたが、では、「然」ということばはどういう意味なのでしょうか。

「然」についてもとりあえず、辞書を引いてみることにしましょう。

「情然」が意味するもの


広辞苑で「然」を調べてみると、「状態を表す語をつくる助字」という説明があります。説明はこれだけで、一行で終わっています。これは要するに、「然」そのものには特定の意味がないということですから、「情然」とは「情の状態であること」といったほどの意味になります。

念のため別の辞書を調べてみると、集英社の国語辞典には「然」についての詳しい用例があります。引用してみましょう。

「依然、毅然、厳然、公然、忽然、整然、騒然、断然、超然、陶然、突然、漠然、判然、憤然、平然、猛然、悠然、冷然、歴然」

このほかにも「〇然」という熟語は数多くありますが、ここに列挙した用例だけでも、「然」の意味と用法はおわかりでしょう。高校の国語の教師であれば、「これらの用語を使って短文を作りなさい」といった問題を出すかもしれません。もしもわたしにそのような問題が出されたら、わたしは次のような答案を作成するかもしれません。「日本人間学会が水準の高い学術団体であることは、歴然とした事実だ」。我田引水になり恐縮ですが。

「情然」という概念は勝本義道氏とその協力者たちが考案した造語ですから、辞書には登録されていません。そこで、わたしたちはこれまで、「情」と「然」の意味を調べてみることで「情然」の意味を探ろうとしてきました。

以上の考察によれば、「情然」とはどうやら、「情が情のままにある状態」のことであるようです。

「情が情のままにある」とはどういうことかというと、「心以前の心」を考えてもらえればよいでしょう。わたしたちの心においては、知情意は分離できないものとして存在しますが、その心から「知」と「意」を捨象すると「情然」の状態になります。当然のことながら、その心には「わたし」という自己意識はありません。

「情然」の「情」を人間の「心」を構成する最も基本的な要素と解すると、「はじめにあったもの」は人間の心と同じものとなり、わたしたち人間の一人一人の心が「小宇宙」になります。

また、「情然」の「情」を「ありのままの事実」と解するなら、「情然」は「ありのままの事実であること」という意味となり、「はじめにあったもの」の定義としてこれ以上ふさわしいものはないことになります。

いずれにしても、古代ギリシア時代の自然哲学者たちがあれこれと頭を悩ませた「はじめにあったもの」(宇宙の根源的な要素)の問題は、「情然」の概念の登場によって解決の糸口がつかめた(ように思われる)わけです。

新しいヒューマニズム思想


では、次の話に進みましょう。

感情の動きはわたしたちにとって最も直接的な経験ですから、「情」は人間の心のベースとなる働き(パソコンにおけるマザーボードのようなもの)であると考えられます。

もしも「はじめにあったもの」が「情然」であるとすれば、わたしたち人類は宇宙の主人公であると考えることができます。宇宙の根源と人間の心は何かしら深い縁で結ばれていることになりますから。

そういう意味では、「情然の哲学」はヒューマニズムの思想であるといえます。これまでにあらわれたどの思想よりも人間の価値を高く評価する点で、「情然の哲学」は、新しい時代のヒューマニズム思想だと考えることができるでしょう。
この点に関しては、たとえば共産主義の思想などと比べてみるとよくわかります。

マルクス・レーニン主義においては、人類の価値の源泉は「労働」にあることになっています。とするなら、労働のできない子供や老人は価値のない存在となり、「世の中には価値のある人間と価値のない人間が存在する」というおかしなことになってしまいます(もちろんこうした本音の部分は決して公言されることはありません)。

これではとても、ヒューマニズム思想とはいえませんね。

国家権力を行使して平然と「粛清」ができるのも、人間を「モノ」として考える世界観が背景にあるからでしょう。

左翼思想には「反動分子」という言葉がありますが(歴史の目的に逆行する人間、といったほどの意味です)、共産主義の世界ではこの主義に反目する人間は「反動分子」とみなされますから、それ自体が大きな罪となり、粛清のブラックリストに登録されてしまうことになります。

「情然の哲学」は、宇宙の本質と人間の本質がともに「情然」であると考える思想ですから(さらに言うと、動物たちの生態は「情然」そのものです)、真の意味で人類を解放する思想ではないかとわたしには思えます。

とはいえ、わたしたちはもちろん、「ありのままの事実」としての「情」について科学的な調査をすることはできません。何しろそれは、ビッグバン以前のビッグバンをもたらした宇宙の状態ですから。

しかしながら、その「情然」からどのようにして宇宙が誕生し、人類が出現したのかという仮説を立てることはできます。

宇宙生成のプロセスは現代の物理学が詳細に説明していますが、それがなぜ人類の出現につながったのかという問題については、ずっと無回答のままです。そもそも科学は「なぜ」を問うことができないし、宇宙の創造者としての「神」を設定することもできないからです。

科学と宗教を強引に接合しようとしても、やはりどこかにほころびが出てしまいますが、『情然の哲学』は、宇宙の誕生から人類の誕生までのプロセスを一貫した論理で説明しています。こうでこうでこうだからこうなのだ、というわかりやすい説明です。

わたしのこの講座では、『情然の哲学』の全体をさらに噛み砕いて解説することになりますが、ただその前に、もう少し「情然」の概念についての話をしておかなければなりません。

新しい学説が出てきた場合、学識の深い人であればあるほど、慎重な態度でそれを検討するものです。頭のいい人であればあるほど、着眼点は鋭いし、論理の展開も明晰です。では「アルケー=情然」という学説は、社会の第一線で活躍している知識人をも納得せしめ得るものなのだろうか。そのように考えてみると、比較思想の観点や現代科学の観点からも「情然」の概念を検討したほうがいいことになります。

そのため、次回の講座では比較思想の観点から「情然」について検討し、その次の講座では現代科学の観点から「情然」について検討してみようと思います。

15回


わたしたちは今日、スマートフォンやパソコンを当たり前のように使っていますが、このような社会が到来することは、数十年前には(たとえば白黒テレビの登場が世間の話題になっていたような時代には)想像することすらできませんでした。

そんな事実が象徴するように、決して大げさな言い方ではなく、たしかにここ数十年の間、世界は激変してきたといえるでしょう。

時代が進むにつれてさまざまな分野で大きな変化がありましたが、人間学の分野では、わたしが思うに、抜本的な人間観の更新はなかったようです。たしかに文明は長足の進歩を遂げてきましたが(それが必ずしも平和利用されていないことにも問題はあります)、人間はあいかわらず人間であり、科学技術が進歩し暮らしが豊かになっても、人々の考えることはあまり変わっていないのかもしれません。

わたしは前回の講座で、「情然の哲学」を基軸にすえるとそこから新しい世界像が描き出せる、といった趣旨のことを述べましたが、新しい世界像の提示はやはり、現代における人間学の最も重要な課題ではないかと思います。世界観が更新されることによって、新しい人間観の提示が可能になるからです。

先の例にもあるように、文明のほうは予想以上の速度で進歩しているわけですから、人類にはもともとそれだけの可能性があったことになります。人間学の研究を学問の一領域として取り組むと、ややもすると関心が過去の文献にばかり向かってしまい、「人類の可能性」というテーマを見落としがちになります。

大学などで講じられる人間学の講座は、基本的には過去志向のもの(よくいえばアカデミックなもの)ですから、わたしのこの講座は、そうしたものとは一線を画し、どこまでも未来志向のものでありたいと考えています。

では、新しい人間観を探索するための具体的な方法論とは、どのようなものでしょうか。

これについては、すでに明確な答えがあります。

それは、世界のルーツを可能なかぎりさかのぼって考えてみる、ということです(ただしこれは「過去志向」とはまた別のものです)。

そこでわたしたちは、この講座において、究極の「そもそも論」としての「はじめにあったもの」の問題について考えてきたのでした。そして、「はじめにあったもの」とは「情然」ではないか、という仮説を立て、その仮説の有効性について吟味してきたのでした。

そこで、今回は、その話の続き、すなわち「情然」の概念の吟味の続きとなります。前回の講座で予告したとおり、今回は比較思想の観点から「情然」について考えてみることにしましょう。

ちなみに、今回の話の内容は『情然の哲学』の「情然の場と相似形にある諸思想」(第3章)を踏まえたものとなります。

(本講座において「情然の哲学」と表記されているところは情然の哲学の思想内容を指し、『情然の哲学』と表記されているところは情然の哲学の書物を指します。)

聖書が語る世界の成り立ち


「はじめにあったもの」に関する言説で最も有名なものといえば、やはり聖書でしょう。「創世記」の冒頭には、世界の誕生に関する次のような叙述があります。

初めに神は天と地を創造された。
地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

(創世記1章1節~5節 聖書協会共同訳)


一読すると、これはひとつの神話であるようにも受け取れます。

まるでひとりの人間であるかのような存在として「神」が登場し(このことを「人格神」といいます)、その神があるとき、世界の創造に着手するというわけですね。話としては面白いし、また、誰もが親しめるようなわかりやすい内容です。

ただ、「情然の哲学」の観点から見ると、どうやらここには単なる神話以上のものが示唆されているようです。

引用した聖句の2行目に注目してみましょう。

地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

宇宙のなかに水がつくられるのは光の誕生以後のことですから、ここでの「水」は、何かの比喩と捉えてよいでしょう。それから、「神」とは言わず「神の霊」と表記してあることにも注意が必要です。

この一文から感じとれることは、「情然」の状態にあった「神」が自己意識をもたない「霊」として混沌とした闇のなかに揺らいでいた、といったイメージです。

これはそのまま「情然の哲学」における「はじめにあったもの」のイメージなのですが、創世記の冒頭にこの謎めいた一文があることにより、聖書が単なる神話以上のものであることをわたしに確信させるわけです。

それから、創世記の記述によると、わたしたちが住んでいるこの世界は7日間で完成したことになっていますが、「7日間」を「7段階」の比喩として解釈すると、現代の科学が解き明かした宇宙の生成過程と驚くほど一致します。このあたりのことから考えても、聖書には何かしらの啓示性があるのではないかとわたしには思えるのです。

聖書については今後、この講座において主題的に扱うことになるかと思いますが(神学と人間学の接点を模索する論議を予定しています)、ここでは聖書と「情然」の接点についての話題だけにとどめておきましょう。

キリスト教と西洋思想


次に、キリスト教と西洋思想の関係について簡単に確認しておきましょう。

西洋の思想のなかには一般に、ヘレニズムとへブライズムがあるとされています。ヘレニズムとは、ギリシア哲学以来の倫理思想の伝統で、人間に与えられた「理性」を基底に据えながら世界を解釈しようとする態度のことです。

一方、ヘブライズムとは、ユダヤ教とキリスト教の流れのなかにある思想の伝統で、こちらは「信仰」を基底に据えながら世界を解釈し、世界と関わろうとする態度のことです。そして、よく言われることですが、ヘレニズムとヘブライズムは水と油のようなもので、原理的に言ってたがいに親和し、融和することはありません。

したがって西洋の倫理思想史について考える場合、歴史に残っている思想家たちが、ヘレニズムとヘブライズムのどちらにより親和性をもっているかを考慮する必要があります。

もちろん、ひとりの思想家においても、生涯のなかでヘレニズムのほうに心が傾いている時期があったり、ヘブライズムのほうに傾いている時期があったりします。

ですから、単純な決めつけやレッテル張りはよくないのですが、「信仰」と「理性」の問題は、キリスト教信仰の根本的な命題であるばかりでなく、哲学者たちの世界観にも常に影響を及ぼしていた問題であったといえます。簡単には解決できない問題であったからこそ、わたしたちもこの問題に留意する必要があるわけです。

古代ギリシアの地に哲学や数学が隆盛したのは、紀元前数百年ごろのことです。ピタゴラスやアルキメデス、それから、ソクラテスやプラトンやアリストテレスが有名ですね。

一方、ヨーロッパのある地域にはイスラエルという名前の民族がおり(この人たちはのちにユダヤ民族と呼ばれるようになります)、この民族を中心としてヘブライズムの思想が形成されるようになります(ヘブライズムとはヘブライ人たちが共有していた世界観を意味しますが、ヘブライ人はイスラエル人の別名です)。

紀元前2000年頃に現れたアブラハムがその起源であり、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、アブラハムを起点にもつという点では同じです。

ちなみに、イスラエルという名前は、アブラハムの孫のヤコブが天使から授かった称号です。ただし、そのあたりのことは旧約聖書のなかだけに書かれている事柄ですから、史実として受け止めてよいかどうかは微妙です。

いずれにしても、ヘブライズムの歴史には、アブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフ・モーセ・ヨシュア・サムエル・サウル・ダビデ・ソロモンといった人物が輩出し、そしてその流れのなかから、誰もがよくその名を知っているイエス・キリストが出現するわけです。

それがちょうど、紀元0年のことです(後世の人たちがイエス・キリストの誕生をもって西暦のはじまりと決めたのですから、これは当然ですね。ただし、実際には4年ほどの誤差があるようです)。

ユダヤ教の指導者たちの策謀のため、イエスが十字架上で死を遂げたあと、初代教会の時代にパウロという人物が現れ、キリスト教の教えがギリシアやローマに伝えられることになります。キリスト教の信徒たちは当初、ローマ帝国によって残虐な迫害を受けましたが、4世紀には国家公認の宗教となり、さらには国教にすらなります。そのころ活躍したのがアウグスティヌスで、キリスト教のいわゆる正統の教義は、彼ら教父たちの尽力により確立されることになります。

さて、そのアウグスティヌスですが、彼はギリシアの哲学にも通じており、教義の構築にあたっては、新プラトン主義を援用したといわれています(新プラトン主義の解説はここでは省略します)。

キリスト教が国教となってからは、国王と並んで法王(教皇)が強大な力を持つようになり、キリスト教は中世ヨーロッパを席巻するようになりました。そして、その時代はスコラ哲学が思想界を風靡することになります(ちなみに「法皇」は仏門に入った上皇のことで、こちらは日本の話になります)。

「スコラ」は修道院に付属する学校のことですから、スコラ哲学とは、そこで語られた哲学の総称であり、キリスト教の教義を哲学的に裏付けようとしたものです。

もちろん、あくまでもキリスト教の信仰が前提となるので、「哲学は神学の侍女(じじょ)」とされていました。スコラ哲学の代表的な作品は、トマス・アクィナスの「神学大全」です。彼は、アリストテレスの哲学を援用しながらスコラ哲学を大成しました。ここでもまた、アウグスティヌスのときと同じように、キリスト教と西洋思想の関わり合いが顕著に見出されます。

アリストテレスの哲学の全容がヨーロッパに広まったのは、13世紀のことです。両者は地理的にさほど遠くないはずですが、思想の伝播というものは、いつの時代にも、商品の流通などに比べるとはるかに時間がかかるようです。

ここで留意しておきたいのは、中世において勃発した有名な論争です。「唯名論」と「実在論」のぶつかり合いですが、この論争は「普遍論争」と呼ばれ、当時の思想家たちの頭を悩ませることになります(どんな論争であったのかの説明は省略します)。

事実、ここに端を発した論争は長いあいだ決着がつかず、近代に入ってからも、唯名論の思想は大陸の合理論に影響を与え、実在論の思想はイギリスの経験論に影響を与えています。近代哲学の父といわれるデカルトは、合理論の始発点に位置する人ですが、経験論の始発点にはベーコンがおり、合理論と経験論は、今でもわたしたちが普通に用いている思考法(演繹法と帰納法)の源流となりました。

ベーコンは、人間の「知」にとって「経験」は不可欠であるという哲学を主張したので、このあたりの思想から科学が胚胎します。一方、デカルトは、「理性」を「信仰」から切り離すことで近代哲学の基礎を築きました。彼の代表的な著作は、『方法序説』(ただしこれは略称)です。

ここで、トマス・アクィナスの思想を簡単に紹介しておきましょう。

キリスト教では神が世界を創造したことになっていますから、この宇宙は神の作品です。とするなら、自然界を探索することである程度まで神の神性が推測できることになります(これを自然神学といいますが、キリスト教ではその後、この神学は主流の思想にはなりませんでした)。そして先にも述べたように、こちらの立場から科学が生まれ、さらには、人間の生活に利便性をもたらす科学技術が生まれることになります(産業革命がイギリスではじまったのも科学技術の誕生と密接な関係があります)。

また、神は一方で、ご自身の独り子であるイエス・キリストを人類に送り、人類の救済の摂理をなさったばかりでなく、聖書という「神の啓示の書」を人類に与えました。

そのため、自然界と聖書は矛盾するものではないはずなのですが、実のところ、両者の統合はどうしてもうまくいかないのです(これが要するに信仰と理性の問題です)。

ちなみに、テリトゥリアヌスという神学者は、すでに2世紀において、「不合理なるが故に我信ず」といった意味の発言をしていますが、これなども、キリスト教信仰の非理性的な性格を物語るエピソードとして有名です。

そこで、トマス・アクィナスは、自然界のなかに見出される真理(一般啓示)の上に「聖書」(特別啓示)を置くことで、信仰と理性の問題に一応の決着をつけたのでした(ただし一般啓示・特別啓示という術語は近代に入ってから福音派が使いはじめたもの)。

スコラ学のなかで勃発した普遍論争は、先にも述べたように、イギリスの経験論と大陸の合理論というかたちで継続します。そして、この二つの考え方を統合したのがカントの哲学です(カントについての解説は省略します)。

カントとフィヒテとシェリングとヘーゲルは、しばしば、ドイツ観念論というフィールドのなかにカテゴライズされますが、シェリングの哲学は、カントやヘーゲルほど有名ではないものの、かなりの独自性を持っています。『情然の哲学』では、このシェリングの思想をとりあげて「情然」との類似性について言及しています。

近代の哲学はヘーゲルによって大成されますが、ヘーゲルの存在は「情然の哲学」を理解するうえでも重要です(この点についてはすぐあとで話します)。近代の哲学がヘーゲルによって確立したあと、西洋の哲学史は皮肉にも、ヘーゲル批判をバネにして展開することになります(ヘーゲル哲学の功績と課題についてもここでは省略します)。やや大雑把な言い方になりますが、現象学も実存主義もマルクス主義も、ヘーゲル批判を土台にしている点では同じです。

とはいえ、新しい哲学は前の時代の哲学の批判からはじまるのが通例ですから、現代哲学の誕生は、人類の思想史における正常な発展のプロセスだったといえます。そういう意味では、やはりヘーゲル哲学の功績は大きいのです。

ヘーゲルの哲学とマルクス主義や実存主義との関係もたいへん興味深いものですが、このあたりの事柄についてはまた別の機会に話すことにしましょう。

「情然」と西洋思想


以上見てきたように、西洋の思想は、キリスト教の影響を抜きにして語ることができません。デカルトによって哲学が神学から独立したといっても、西洋の哲学の主流は何といっても観念論(形而上学)であり、その背後には常にキリスト教神学(神の創造と人間の堕罪、そして人類の救済というパラダイム)が存在していたのです。

では、ヘーゲルの哲学は「情然の哲学」とどのようなところに接点があるのでしょうか。

ここから先はやや難しい話になりますが、重要なテーマなので省略はできません。ここでは、「即自と対自」という観点に絞って解説しましょう。

以下に引用するのは、ある学者の、ヘーゲル哲学に登場する「即自」という概念についての解説です。

ドイツの哲学者ヘーゲルが用いた哲学用語。「即自」は物事の直接態、他とのかかわりによって規定される段階にまで達していない未発展の相をさす。したがって、認識する主観に対してまだ発現していない「潜勢態」、また自己自身への反省的関係を欠くという意味で「無自覚態」の意ともなる。たとえば、子供は理性の即自態である。
「即自」は、他と交渉し、そこに自己の自立性を失う「対他」へと発展する。子供が大人の命令に従うのは、自己の内なる理性を、他者の側にもつからである。さらに「対他」から、自己自身と関係することによって、自己を取り戻す段階である「対自」へと発展する。子供は理性を身につけることによって自立する。
理性を身につけるということは、自己の内なる即自的理性を自覚することである。理性を自覚することは、身に即して理性を発揮することである。他人とのかかわり(対他)のなかで、そのかかわりを自分の内に取り込んで自己を普遍化することによって自立する。「対自」には「自立」と「自覚」という意味が含まれる。
『R・ハイス著、加藤尚武訳『弁証法の本質と諸形態』(1970・未来社)』

また、ブリタニカ国際大百科事典には、「即自」について次のような説明があります。

現象から独立に実在に一致して、あるいはそのものの定義に一致して、という意。

ヘーゲルにおいては、概念 (一般者、絶対者) が自己のうちにとどまり潜勢的に弁証法的発展の萌芽を含みながらも、なお抽象的自己同一を保つ状態をいう。
サルトルにおいては自己充足的に存在し、自身のうちにいかなる否定も含まないようなもののあり方を示す。サルトルはこれを「あるところのものであり、あらぬところのものであらぬ」と表現する。

ヘーゲルやサルトルが用いていた「即自/対自」という用語を使うならば、「情然とは原初の心の即自的状態である」と定義することができるでしょう(「原初の心」についてはのちほどあらためて説明します)。

では、「情然」とはそのまま「即自」のことかというと、もちろんそうではありません。「情然」は「即自」の単なる言い換えではないし、類似の概念でもありません。「即自/対自」は関係概念ですが、「情然」は実体概念です。そこのところは大きく違います(ただし「心」が「実体」であるかどうかは別途論議が必要です)。

「情然」の概念は世界が「即自/対自」の構造になっている理由を解き明かす鍵となるものなので、「情然の哲学」は、ヘーゲルやサルトルの思想をさらに一歩進めたものといえるのです。

ただ、このあたりの問題はとても一回の講座で語りきれるものではないので、のちほどまたとりあげることにしましょう。

「情然」と東洋思想


ヘーゲルやサルトルの思想を振り返ることで、「情然」の概念と西洋思想のあいだには、意外なところに接点のあることがわかりました。

では、東洋のほうはどうでしょうか。

『情然の哲学』は、「情然」の概念と、華厳経、マンダラ、般若心経、易経、そして理気説(朱子学)との関連について言及しています。

東洋には上記の思想のほかにも、たとえば道教や神道などがありますが、もしかすると、この二つの思想にも「情然」と何かしらの接点があるかもしれません。
ここでは、この点について考えてみましょう。

まずは、道教について。

道教は、仏教・儒教とならぶ中国の三大宗教として、古来、人々のあいだに広く信じられてきました。「無為自然」の理念で知られるこの思想は、文明の力で自然を支配しようとする西洋の思想とは対極の位置にあり、東洋思想の最右翼ともいうべき性格を持っています。

源流にあるのは道家の思想ですが、その中心的な存在は老子と荘子であり、この二人の思想を合わせて、老荘思想と呼んでいます。

ここまではわりと常識的な事柄なので、ご存知の方も多いことでしょう。

老荘思想の中身に関する説明はここでは省略しますが(紙数の関係で、調べればすぐにわかるようなことは省略します)、老子は、万物を生み出す根源(すなわち「はじめにあったもの」)は「道」であると説いています。

この「道」は、もちろん道路を意味する「道」ではなく、独特の含意をもつものですが、別名をタオ、ともいいます(むしろこのことばのほうが有名ですね)。
老子によると、宇宙以前の存在としての「道」は、人間の感覚では捉えられず、また言葉で説明することもできないものです。

このあたりのところは重要なので、『老子』という書物から、該当の部分を現代語訳で引用しましょう。

  • 誰もが道だとするようなものは、恒常不変の真の道ではない。名付けることができるようなものは真の名ではない。名付け得ないことが万物のはじめであり、名付けることこそ万物を生み出す母なのである。(第一章)
  • 混沌たる何物かが天地よりも先に存在していた。音もなくひっそりと、ただ一人で変わることなく、あらゆるところをめぐって疲れることもなく、天下の母といってよい。私はその名を知らない。仮の名を「道」というのである。私は強いてこれに名付けて「大」というのである。(第二十五章)


この二つの箇所からもわかるように、どうやら老子もまた、今から二千数百年も昔に、「はじめにあったもの」が「情然の場」であったことをほぼ正確に洞察していたようです。

道教は「道」の「教え」と書きますが、「道」は「情然」ときわめて近い概念であるため、すでにこの時代に「情然の教え」が存在していたことになります。

このように考えると、東洋思想の観点から見た場合にも、「情然」はかなり有効な概念であるように思えてきますね。

ちなみに、道教というと、仏教や儒教ほどにはわたしたちと関わりのないもののように思えるかもしれませんが、じつはそうではありません。

「タオ」は、現代においても、スピリチュアルの分野(大型の書店に行くとやや奥まったところに「精神世界」のコーナーがありますが、そこに並べられている書物の内容を総称して「スピリチュアル」と呼んでいます)のキーワードになっているし、「気功」や、「風水」や、「漢方」や、「鍼灸」や、「丹田呼吸」などもみな、道教由来のものであるからです。

次に、「情然」と神道の関わり合いについて考えてみましょう。

神道について理解するためには、やはり、その背景にある日本文化全般に対する知識が必要です。

そして、日本の文化を理解するためには、古事記、日本書紀、万葉集、古今和歌集、源氏物語などの古典について知っておく必要があります。

また、ひとくちに神道といっても、古神道と復古神道と垂加神道と国家神道などがあるため、それらの区別がつかなければ話の入り口に立つこともできません。
戦後の日本の学校教育は、戦前までの日本文化に対する系統的な学習をすべて削除してしまったため(これにはアメリカの圧力や左翼勢力の影響があります)、「日本人の日本知らず」という状況が戦後の日本において顕著にあらわれてしまいました。

そのため、わたしたちのような中高年の世代においてすら、日本についての正しい見識を持ち合わせていない人が多いように思われます。いまの若者たちにおいては、なおさらです(神社とお寺の違いが説明できないような青年もたくさんいます)。

神道は、江戸時代に国学が隆盛したおかげで、いまのわたしたちにも引き継がれるようになりましたが、賀茂真淵(1697~1769)や本居宣長(1730~1801)や平田篤胤(1776~1843)などの仕事(国学)や、柳田国男(1875~1962)や折口信夫(1887~1953)などの仕事(新国学)についての知識がないと、神道の何たるかを把握することは難しいでしょう。

もちろん、それらの内容をこの場で語ることはできません。

そのため、「情然」と神道、「情然」と日本文化の関わり合いについては、のちほどあらためて話すことにしたいと思います。

「神の愛」と「情然」


最後に、「神の愛」と「情然」の関係について簡単に話しておきましょう。

キリスト教の根幹をなすものは、いうまでもなく「神の愛」です。キリスト教が神の愛を説かず、またイエスという人物が人類の前に神の愛の模範を示さなかったとすれば、キリスト教が今日のような世界宗教に発展することはなかったことでしょう。

では、そもそもなぜ神は「愛」なのでしょうか。

このあたりの問題については、当のキリスト教も「そうだからそうなのだ」といったトートロジーの答えしか持ち合わせていないようです。

しかしながら、キリスト教文化圏の外側にいるわたしたち日本人にとっては、「そうだからそうなのだ」と言われても、「はいそうですか」と簡単に納得するわけにいきません。

そのため、神が愛であることの哲学的な論証をわたしたち現代人は必要としているわけです。

もちろん、神が愛であることの論証などそう簡単にできるものではありません。このあたりのことをテーマにしているのは宗教哲学ですが、近代哲学においては、いわゆるドイツ観念論(カントに始まりヘーゲルによって大成された一連の哲学体系)の思想家たちがこの問題に取り組んできました。そして言うまでもないことですが、「なぜ神は愛なのか」という問題に関しては、わたしたち人類に未だ十分な答えは与えられていません。

ところが、驚くべきことに、「情然の哲学」は、このような究極的な難問にも問題解決の糸口をわたしたちに与えてくれているのです。

神の愛について明確な理解を得るためには、「神の誕生」と「神の成長」の問題を解き明かす必要があります。

ところが、神の誕生の問題を解き明かすためには、「はじめにあったもの」が「情然」であったという洞察が必要となります。逆に言うと、「アルケー=情然」と定義することによって、神の誕生と成長の問題にも解決の糸口が与えられることになるのです。

わたしたち人類はこれまで、神についてたくさんの議論をしてきましたが、神の誕生や神の成長といったテーマについてはほとんど何も語らなかったし、また考えることもありませんでした。「情然の哲学」では、今後、そのあたりのところまで哲学のメスを入れていくことになるので、どうぞご期待ください。

これまでの考察から、「情然」の概念は、古今東西の宗教・思想との比較においても驚くほど有効なものであることがわかりました。

では、現代科学の観点から見た場合にも、「情然」の概念にはやはり顕著な有効性が認められるのでしょうか。

次回は、そのあたりのことについて話してみたいと思います。

16回


前回の講座では、比較思想の観点から「情然」の概念の有効性について考えてみました。

その結果、「アルケー=情然」という仮説を立てても論理的な矛盾は起こらず、そればかりか、この概念は、古今東西の諸思想に対して多くの接点をもっていることがわかりました。

今回は、この思想の有効性をさらに検証するため、科学的な観点から「情然」について考えてみることにします。

とはいえ、『情然の哲学』自体が科学的な見地から自説を展開しているため、わたしがここで同じような説明をする必要はありません。

それに、わたし以上に今の科学に通じている人には「釈迦に説法」になりますから、今回のわたしの話は、理系の分野をあまり学んでいない方のためのものになります。

ミクロの世界の常識


物質の構造がどのようなものになっているかについては、ほとんどの人がご存知のことでしょう。

中学の理科の教科書を開いてみると、いまの子供たちは、中2のときに分子や原子について学んでいることがわかります。東京書籍発行の『新しい科学』では、全部で4つある単元のうち、最初の単元が「化学変化と原子・分子」となっています。

そして、この単元は5章からなり、それぞれの章は、「物質のなり立ち」・「物質どうしの化学変化」・「酸素がかかわる化学変化」・「化学変化と物質の質量」・「化学変化とその利用」というタイトルになっています。1章が物理の内容で、2章以降が化学の内容になっているわけです。

また、単元のはじめのページには「周期表」が掲載されており、解説欄には次のような説明があります。一部を引用しましょう。

私たちの身の回りの物質は、約1億種類をこえるといわれている。そして、これら全ての物質は、周期表にある原子の組み合わせによってできている。(p11)

わたしも学生時代にこの周期表を覚えた記憶がありますが、今のわたしがこの表を見て興味深く思うのは、「くわしい性質がわからない」というカテゴリーに分類されている元素が19個もある点です。現代の科学力をもってしても原子のすべてが解明されているわけではないという事実は、自然界の奥の深さを感じさせてくれますね。

また、それぞれの原子は、個別かつアトランダムに発見されたものであるにもかかわらず、最終的には一つの表に整理されてしまうという点も、不思議といえば不思議です。

このように秩序ある原子たちの並びを眺めていると、この世界の出現にはあらかじめ何かしらの設計図があったのではないかと疑ってみたくなります。この世界が偶然存在していると考えた場合、なぜ原子たちがこのようにきちんと整列できるのか、その理由がわからなくなるからです。

中2の理科の教科書の「物質のなり立ち」の章を見てみると、ミクロの世界の基本的な事柄がわかりやすく説明されています。金を電子顕微鏡で観察するとたくさんの粒子の並びが確認できる、といった例を入り口として、物質をつくる最小の単位についての説明がはじまります。

まずは、はじめに原子説を提唱したドルトンという科学者の紹介があり、続いて、原子の三つの性質についての説明があります。

原子はその種類によって質量や大きさが決まっており、それ以上分割することができず、また、ある原子がほかの原子になったり、消滅したり、新しくできたりすることはない、といった説明です。

このあたりは、「もしもそうでなければこの世界は大変なことになってしまう」という常識から考えても、十分に納得できる事柄です。

たとえば、もしも銅の原子が何かの操作によって金の原子に変貌するとすれば、それはいわゆる錬金術ということになります。

錬金術なるものが何かの装置で可能になるのであれば、この世界の秩序はまたたくまに崩壊してしまうでしょう。

歴史上にあらわれたさまざまな錬金術がことごとく失敗したのは、人類の平和と安全にとってむしろ喜ばしいことでした。

わたしたち人間がどのように手を加えても原子Aは原子Aであり続けるという物理法則が根本にあるからこそ、わたしたちは安心してこの世界に生存していられるのです。

一部の人たちの利己心によって原子Aが原子Bに勝手に変えられてしまうようであれば、世の中は大変なことになってしまいますね。

ただし、化学の分野は、歴代の錬金術師たちによるさまざまな実験によってめざましく発展したわけですから、錬金術の試み自体は、結果的には大いに有益だったといえます。

教科書ではそのあと、原子1個の大きさはどれくらいなのかという話に進みます。銀の原子の直径を2億倍すると直径およそ6センチのボールになり、そのボールをさらに2億倍すると地球とほぼ同じ大きさになる、という説明があります。中学の教科書だけあってとてもわかりやすい説明です。

原子についての基本的な性質を学んだあとは、原子の種類についての学びがはじまります。現在、118種類の原子が確認されているということですが、これらの原子はその性質によってグループ分けのできること(金属や非金属など)などが説明されています。

そして、元素を一定のルールに従って整理した周期表についての説明があり、そのあとに、原子の組み合わせについての話、すなわち分子についての話が続きます。

金や銀のように、原子は単体でも分子になって物質を形成しますが、水や二酸化炭素のように、複数の原子が結びつくことで一つの分子となり、その分子が集まることで物質を形成することもあります。化学式・化学変化・単体・化合物などのキーワードもこの単元で学ぶことになります。

そして中2の理科では、このあとは化学の分野の学びに入っていきます。

次に、中3の理科の教科書を覗いてみましょう。

目次を開いてみると、ミクロの世界に関する学びは、こちらもはじめの単元にあります。中2ではさまざまな化学変化について学びましたが、中3では「イオン」という用語が登場し、化学変化の仕組みをイオンの観点から学ぶことになります。

「ゆとり教育」の時代には中3の理科から「イオン」が消えてしまい、「おやおや」と思っていましたが、その後、「イオン」は教科書に再登場するようになりました。

電荷を帯びた原子のことをイオンと呼ぶわけですが、原子がなぜ電荷を帯びるのかというと、原子は一個の「粒」ではなく、原子核のまわりを電子が飛翔しているからです。原子核を太陽に見立ててみると、太陽系は一個の巨大な原子のようにも見えてきます。どちらも球形の円環運動という点では同じなので、このあたりも自然界の不思議さを感じさせてくれる事柄です。

東京書籍の中3の理科の教科書には、22ページに「ヘリウム原子と原子核の構造」の模式図が掲載されています。電子や陽子や中性子の存在が視覚的にわかるようになっており、便利な模式図ですが、素粒子についての説明はありません。「原子核の陽子と中性子は非常に強く結びついているので離れない」というところで、中学でのミクロの世界の学習は終わりです。そして、イオンについて学んだあとは、酸やアルカリの性質をイオンによって理解する化学分野の学びへと進んでいきます。

高校で学ぶ素粒子の世界


高校の課程に入ると理科の教科書は格段に難しくなり、「義務教育ではないのだから遠慮はいらない」といったスタンスの叙述になります。「嫌ならやめてもいいんだよ」といわんばかりのそっけなさです。高校の教科書を中学生に見せるとその難解さにみなショックを受けますが、物理や化学の教科書などはその典型的なものでしょう。

ただ、世界の謎を解き明かしたいという向学心を持っている人には、高校の理科の教科書はとても魅力的です。

では、東京書籍から出ている最新の物理の教科書を覗きながら、「アルケーの問題」について引き続き調べていきましょう。

令和4年2月10日発行の『改訂物理』の目次を開くと、1編が「さまざまな運動」、2編が「波」、3編が「電気と磁気」、4編が「原子」という構成になっています。4編の2章のタイトルは「原子と原子核」であり、この章はさらに五つの節(「原子の構造」・「原子核」・「原子核の崩壊」・「核反応と核エネルギー」・「素粒子」)に分かれています。ここでは最後の節の「素粒子」の項目を覗いてみることにしましょう。

素粒子とは、「それ以上小さな構造のない基本的な粒子」(p434)を意味しますが、陽子や中性子などの核子もクォークによって構成されているため、物質の最小単位ではありません。では、物質の最小単位はクォークなのかというと、そうでもないようです。なぜかというと、クォークにもさまざまな種類があるため、「クォークをクォークたらしめているクォーク以前の何かあるもの」の存在が想定されてしまうからです。

実際、この教科書にも次のような説明が載っています。

これまで見てきた素粒子の中で、物質を構成する素粒子であるレプトンとクウォーク、そして力を媒介する粒子であるグルーオン、光子、WボソンとZボソン、さらに、これら粒子に質量を与えるヒッグス粒子を含めた素粒子理論を標準模型という。しかし、基本となる粒子の数が多いことや、重力子が含まれていないことなどから改善点が考えられており、標準模型を超えた物理に関する理論研究や実験が現在活発に行われている。(p441)

つまり、物理学の分野においてアルケーの問題はまだ解決していない、というのが、この教科書の結論になっているわけです。

紙数の関係からここではこれ以上の説明を控えますが、この教科書には巻末に興味深いコラムが掲載されています。「ダークマターとダークエネルギー」というタイトルの記事ですが、ここには現時点での物理学の到達点がわかりやすく説明されているので、少し長くなりますが、全文を引用してみることにしましょう。

世界の振る舞いを記述する言語が数学だとすれば、物理学はその文法にあたる。高等学校では、現象を理想化し分割したときに重要となる基礎過程に従って独立した章分けがなされている。基礎過程の理解が大切であることは言うまでもないが、それらを組み合わせて世界そのものを理解する試みが物理学の根底を流れる目標であるということも忘れないでほしい。
ニュートンの第2法則と万有引力の法則を組み合わせれば、太陽のまわりの惑星の運動が正確に記述できる。私たちが地上で感じる重力が同時に天体世界の振る舞いをも決定するというこの事実は驚きに値する。まさにスケールや状況によらず世界は物理法則に従っていることを示す端的な例だ。実際、宇宙の誕生と天体諸階層の形成・進化に代表される宇宙史は物理法則を駆使することによって飛躍的に理解が進みつつある。にもかかわらず、宇宙は何からできているのか、という基本的な謎は未解決のままだ。
20世紀の物理学は、地上の物質はすべて元素(より正確に言えば、クォークやレプトンと呼ばれる素粒子)からなっていることを明らかにした。当然、宇宙に存在するすべての物質も同じく元素からなっていると予想される。しかし実はそうではないらしい。
1970年代にはすでに、天文観測によって宇宙の大半の成分は直接光は出さない「見えないもの」であることが知られていた。しかしそれらは地上の物質と同じく元素からできているものと考えられていた。しかし、1980年代になって、この「見えないもの」が元素だとする仮説と矛盾する観測データが次々と現れる。その結果、それらは通常の元素ではなく、万有引力の法則には従うものの光を出さない物質であると考えられ、ダークマターと呼ばれるようになった。
さらに、天文観測の精度が向上するにつれ、宇宙は元素とダークマターだけでは説明できないことがわかってきた。現在では、宇宙の大半を占めているのは、「光を出さず互いに反発力を及ぼす性質をもった存在」だと考えられており、ダークエネルギーと名付けられている。
このダークという形容詞は、光を出さず直接見えないという意味だけではなく、正体が不明であるという意味も表す。最新の観測データからは、宇宙の全エネルギーの約7割がダークエネルギー、約4分の1がダークマター、残りが通常の元素であるとされている。つまり、宇宙の95%以上はその正体がまだ特定されていないのだ。
ダークマターは、質量をもった未知の素粒子であるというのが通説であり、現在世界中で直接検出を目指した地下実験や大型加速器実験が行われている。一方、ダークエネルギーについては、アインシュタインが一般相対性理論を提唱した直後に導入した宇宙定数であるという説、空間からすべての物質を取り除いた後に必然的に残る真空自体がもっているエネルギーのようなものではないかとの説などがあるものの、いずれも決定的な証拠はない。そのため、ダークエネルギーの正体の解明にはさらなる天文学的な観測が不可欠なのだ。現在、ハワイ島のマウナケア山頂にある国立天文台のすばる望遠鏡を使って数十億年以上過去の銀河数百万個を観測し、ダークエネルギーを解明することを目指した国際プロジェクトが進行中である。(p448〜p449)

わたしの子供時代には科学万能主義の風潮があり、科学の発展に対する素朴な期待をもつ人が多かったように思います。

ところが、古典力学や量子力学ですべての現象が説明できるほど宇宙は単純なものではありませんでした。探求が進めば進むほど、想定外の問題が新たに発生し、そのために新しいモデルを考案しても、それと矛盾するデータがまた観測されてしまう。

このような試行錯誤をわたしたちは今も続けているわけですが、近年では、しばらく前から話題になっていたダークマターやダークエネルギーという用語が、高校の教科書にも登場するようになりました。

この正体のわからない物質やエネルギーは宇宙空間の全領域に浸透しているはずですから、わたしたちもそれらを含めた世界に生存していると考えられます。とするなら、それらはわたしたちの身体のなかにも浸潤しているはずであり、わたしたちは常日頃、「未知なるもの」とともに生きていることになります。

「情然の哲学」の立場から考えてみると、じつはこのような宇宙観も別段不思議なものではありません。「はじめにあったもの」が「情然の場」であるなら、そこから物質として生まれ出たものが元素であり、情然の状態のまま存在しているものがダークマターやダークエネルギーではないかと考えられるからです。

このあたりの考察はいまのところわたし個人の空想に過ぎませんが、もしかすると、「あたらずといえども遠からず」といったものであるのかもしれません。

マスターキーとしての「情然」


このあたりで、「情然」の概念についての考察をまとめてみることにしましょう。

はじめに、『情然の哲学』のなかでの「情然」の説明を確認しておこうと思います。二箇所ほど引用してみます。

真空については後ほど詳しく述べることにして、ここでは物質も真空も、宇宙に存在するものすべてが関係性のゆらぎの中にあるということ、さらには関係性の構造こそ、存在の本質であるということを確認しておきたい。現代物理学において存在の最小単位は量子とされていて、量子とは古典的な一個の点状粒子ではなく「量的な広がりと関係性という内部構造をもったエネルギーのゆらぎの場」であるということだった。量子論をさらに一歩進めた「超弦理論」においても、物質の根源を点状の粒子ではなく「振動する弦(ひも)」であるとしている。ようするに、長さ(広がり)とゆらぎが、存在の根本要素であるということだ。(p94)

存在の最小単位は物質(極微の粒)ではなく、目には見えない(機械によっても観察できない)「関係性の構造」こそが存在の本質であるというわけですね。
もう一つ見てみましょう。

情然の場を現代物理学の言葉で表現すると「真空エネルギーのゆらぎの場」ということになる。宇宙誕生から一三八億年経った現在の物質世界をつぶさに観察し、そこから因果関係を辿ってついに宇宙の始源に行き着き、そこで宇宙物理学者たちが発見したのが「真空エネルギーのゆらぎの場」なのであった。しかしこれまで述べてきたように、そこにはいわゆる「物質」はない。そもそも真空は「物質がない」というような意味だし、「ゆらぎ」も「場」も、物質というより現象や状態、広がりそのもののことである。素粒子物理学者たちが物質の極小領域で見たのも同じ「物質がない世界」だった。
いまこの世界にあるもののうちで、宇宙始源の時からずっと存在し続けたもの。物質ではなく、形も重さもなく、なにものにも規定されず、そしてあらゆるものを生み出す源となりうるもの。それこそまさしく情然の場であり、そこで情感性がゆらぐことによって生じる波や渦としての「クオリア」であった。(p104)

そのなかに何もない真空というものはない、というのが、現代物理学の見解ですから、「そもそも空間があるとはどういうことか」という哲学的な問題がそこから派生することになります。

このあたりの問題になるとかなり専門的になってしまいますが、「情然の哲学」では、「存在」と「非存在」が未分化であるような存在の場のことを「情然の場」と定義したわけです。

これはもちろん、物理学の概念ではなく、科学と哲学と宗教の学際的な研究の結果導き出された概念であるといえます。

いずれにしても、世の中にはすごいことを考えてしまう人がいるものですね。
「はじめにあったもの」とは何か。そんな問題は科学者や哲学者に任せておけばいい、というのがわたしたちの常識的な発想ですが、新しい概念まで拵えてこの問題に答えを出そうとする人が、世の中にはいるのです。そんなひとが考案した情然の場という造語も、言い得て妙です。この概念の考案者は何か普通でない境地に入って、常人には想像のつかない悟りを得たひとなのかもしれません。

では、このあたりで全体のまとめに入ることにしましょう。

「情然」という概念はどうやら、科学や哲学や宗教の扉を自由に開けることのできるマスターキーのようなものらしい。これまでの考察により、そんなことがおぼろげながらわかってきました。

簡単に言うと、ドラえもんの四次元ポケットの中から出てきたような概念です。
ただし、このツールがどれくらい役に立つのかということは、やはり実際に使ってみなければ分かりません。

そこで、次回からは、「はじめにあったもの」が「情然の場」であるという仮定の上に立ち、宇宙生成のプロセスや人間存在の意味について考えていきたいと思います。

たとえば、人間は男と女に分かれて存在していますが、それはなぜなのでしょうか。また、人間にとって「家庭」とは何なのでしょうか。そして、そもそも、人間の「幸福」とは何なのでしょうか(おそらくほとんどすべての人が「今よりも幸福になりたい」と思っているはずです)。

以後の講座では、人間学のそのような根本問題について考えてみることになります。

17回


わたしたちはここ数回の講座で、「アルケー=情然」という世界認識の妥当性について考えてきましたが、今回からしばらくのあいだ、「情然」以後の世界について考えてみたいと思います。

原初の世界が「情然」の状態であったとしても、「情然」が永遠に「情然」のままであったとすれば、今もってこの世界は、老子の言うような混沌の世界であるはずです。

ところが、今から138億年前にビッグバンが起こり(これは今では科学的な事実ということになっています)、何もないところから広大な宇宙空間が生まれ、わたしたちのような知的生命体まで出現するようになりました。

宇宙の歴史に関しては、わたしたちはすでに多くのことを知っているので、わたしがここであらためて述べるまでもありません。そのため、この講座では、宇宙の歴史の部分はすべてバイパスし、「情然」とこの世界との関係に焦点を絞り、「情然」からビッグバンに至るまでの世界について考えてみることにしましょう。

「偶然」を担保する「必然」


話をわかりやすくするために、「すごろく」のようなサイコロ遊びを例にとりたいと思います。

すごろく遊びの楽しさは、結果がどうなるかわからないところにあります。サイコロを振っても偶然の事象しかそこには存在しないため、ゲームの結果は最後までわかりません。そのため(狙った結果が意図的に再現できないため)、それは「遊び」になるわけです。

ところが、サイコロの目の出方は、じつは「偶然」だけではありません。目の出方はどれも一様に「確からしい」(中学で学ぶ数学用語)わけですから、確率計算ができます。言うまでもなく、それぞれの目はみな6分の1の確率で出ることになっています。

ただし、すごろく遊びの場合はサイコロを何百回も振るわけではないので、必然よりも偶然の支配が圧倒的です。そのため、この遊びは偶然の連鎖によって進行することになるわけです。

しかしながら、もしもサイコロを6万回ころがすとすれば、それぞれの目はみなほぼ1万回出ることになるでしょう。たとえば、3の目だけが2万回も出てしまう、ということはありえません。同じ理由で、5の目は3千回しか出なかった、ということもありえないわけですね。

つまり、毎回のサイコロの目の出方は完全に「偶然」ですが、サイコロを転がすという試行を6万回繰り返すと、それぞれの目はほぼ1万回に揃うという「必然」が、どこからともなく立ちあらわれてくるわけです。

「情然」の世界について考える場合も、この「サイコロの目の出方」の例は有効です。

「はじめにあったもの」が「情然」の世界であるならば、その世界のなかには偶然の事象しかなかったはずです。なぜなら、「情然」とは「情が情のままにある状態」のことであり、そこにはいかなる「理性」もなければ、いかなる「意志」もないからです。

ではここで、理性も意志ももたない「純粋な感情」とでもいうべきものをイメージしてみましょう。

そのような無垢なる感情が、世界以前の世界に存在していたと仮定します。世界以前の世界とは「情然の世界」ですが、その世界のなかに「情」を本体とする、「物」でも「霊」でも「魂」でもない生命体が存在していたとイメージするわけです。

もちろんこの生命体は、「神」ではありません。また、スピリチュアルの書物などに出てくるような「宇宙意識」でもありません。老子はそれを、「名づけようのないもの」と言い、必要に迫られて「タオ」と名づけましたが、わたしたちはここで、このような原初的な生命のことを「純粋感情」と呼ぶことにしましょう。

ただ、「純粋感情」ではいまひとつイメージがしづらいので、ここではこれを、姿のないアメーバのようなものと考えることにします。

このアメーバに、「親」はいません。この生命体は「はじめにあったもの」ですから、はじめから「いた」のです。聖書の言葉を借りて言うなら、これは「あってあるもの」とでもいうべき存在で、「なぜいるのか」ということを問うことはできません。

ここで、この生命体の存在を哲学的に考えてみましょう。

はたしてこの生命体は「存在している」と言えるのかというと、じつは言えません。その理由は、わたしが思うに二つあります。

一つは、その生命体が存在していることを認識し得るほかの存在がないからであり、もう一つは、その生命体自身も自分の存在をまだ自覚していないからです。
このように考えてみると、この一匹の姿のないアメーバは、必ずしも「存在している」わけではありません。しかしながら、この生命体はのちのち、堂々たる存在者(もしかすると「神」)に成長するわけですから、「存在していない」と言うこともできません。

そこでわたしは、このような原初の生命体のことを、「有と無の未分化の状態にある存在」と考えることにしています。

このアメーバは、今の時点では、存在とは言えない存在形式で存在している存在ですが、その本体が「情」であるため、「情然の海」のなかで、ただじっとしているわけではありません。

「動かない情」というものは、そもそも情ではないので、この一匹のアメーバは、時間も空間もない世界以前の世界を、あたかもクラゲが泳ぐように、ゆらゆらと泳いでいたのです。情の揺らぎのままに、ただゆらゆらと揺らいでいたのです。

そこにはただ、「偶然」だけがありました。

しかしながら、このアメーバが泳いでいた「偶然」の世界は、じつは「必然」によって担保されていた世界でもありました。あたかもサイコロが、必然によって担保された偶然の世界を転がっているように。

「情」がもっている普遍的な性質


偶然と必然の問題は、『情然の哲学』のなかでも重要なテーマとして扱われていますが、ここでは思弁的な議論を避けて、アメーバの「身の上話」を続けることにしましょう。

情然の海のなかを「純粋感情」が揺らいでいると仮定した場合、どのような事象が生起することになるでしょうか。

「情」がもっている本来の性質から推し量ってみると、この原初のアメーバは、揺らぎながら何かを感じていたと考えられます。なぜなら、情の働きとは本来、「感じる」ところにあるからです。「感」と「情」は非常に近い関係にあるため、わたしたちも日ごろの生活のなかで、感情という言葉を頻繁に使っています。感情という言葉もあるし、情感という言葉もありますね。

では、そのアメーバはいったい、揺らぎながら何を感じていたのでしょうか。

答えは簡単です。

自分自身の「ゆらぎ」を感じていたのです。

その時点においてアメーバの「外」の世界がない以上、それ以外に感じるものはありませんから。

ここで、このアメーバの「スペック」について考えてみましょう。

わたしたちの心をエーテルのように満たしているものは、おそらく、純粋感情というべきものです。

だとすれば、自分の心を標本にして考えてみれば、このアメーバの性質もおのずから導き出せることになります。

私見によれば、どうやらこのアメーバには、あらかじめ次の四つの性能が備わっていたようです。

  • 自発性、受容性、指向性、結合性


上記の四つの性質について、簡単に説明しておきましょう。

「自発性」については、あまりにも自明なので説明の必要はないでしょう。「純粋感情」を束縛する外部の何者も存在しないわけですから、このアメーバは、自由気ままに「情然の海」を漂っていたのです。

「受容性」については、「感じる」という働きの性質について考えてみれば、おのずからわかりますね。

わたしたち人間は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚を持っていますが、たとえば、目はつねに何かを見ているし、耳はつねに何かを聞いています。見たり聞いたりする意思がなくても、何かが見えているし、何かが聞こえています。人間の感覚器官には受容性が備わっているため、とくに意識しなくても、外部の世界の情報を認識することができるわけです。

「感じる」ということはかならず、「何か」を感じるわけですから、わたしたちはその時点ですでに、対象物から何かしらの情報(より直接的には「クオリア」)を受けとっていることになります。たとえば、人間の肌は触覚の受容器ですが、何もさわっていないときにも空気には触れており、空気の温度や湿度を感じています。暑さや寒さを感じているのは肌そのものではなく「情」なので、「情」には本来、対象物に対する「受容性」があると考えられるわけです。

「指向性」については、「不快を避けて快を求める性質」と捉えれば、すぐに理解することができるでしょう。

わたしたち人間の幸福の指標の一つに、「快適な暮らし」というものがあります。「情」にはもともと「快」を指向する性質があるため、わたしたちも常日頃、大きなことから小さなことに至るまで、不快を避けて快を求める行動をとっているのです。

「結合性」については、この性質を「関心」や「欲求」ということばに置き換えて考えてみると、わかりやすくなるでしょう。関心や欲求という心の働きのなかには、もちろん理性や意志も含まれますが、その原因的な要素が「情」のなかにあると考えるわけです。

「快」を求める「情」は、自分に「快」を与えてくれる対象物と関係をもつことを欲するようになります。簡単にいうと、それが「欲しくなる」ということです。

たとえば、欲しいと思っている高級車を購入すれば、自分はその車に乗れるようになります。対価を払うことで、自分と車との独占的(排他的)な関係が自分の権利として成立するわけです。

「なぜあなたはその車を買ったのですか」と、誰かがその人に聞いたとすれば、その人はきっと、「欲しかったから」と答えるでしょう(移動のために車が必要だったのであれば、わざわざ高級車を買う必要はありませんね)。

なぜ欲しくなったのかというと、その車が自分に特別な「快」を与えてくれそうに思ったからです。そのため、この人はその車に関心を持ち、その関心が深まるにつれてそれは欲求となり、ついには購入に至ったわけです。

もちろん、車に限らず、市場に出回っているすべての商品において、人は自分に「快」を与えてくれそうなものに関心を持ち、それがやがて欲求となり、購入に至ります。すでに述べたように、「情」は「感」とも深い関係がありますが、「欲」とも深い関係があります。では、感情や情感と同じように、欲情や情欲ということばがあるでしょうか。

もちろん、ありますね。

「人間は感情の動物だ」とよく言われるし、「世の中は色と欲だ」ともよく言われます。

「情」のなかに「結合性」があるからこそ、わたしたち人間は自分に「快」をもたらしてくれるものに関心をもち、所有したいと思うのです。所有こそ、欲求の充足であり、結合願望の実現ですから。

「情」の性質としての「結合性」については、もう一つ例を挙げておきましょう。

「情」がもっている結合性の最も端的な例は、若い男女の恋愛かもしれません。
「恋は盲目」と言いますが、「情」のもっている結合性があまりにも強くなると、理性のブレーキすら効かなくなってしまいます。

近松門左衛門(1653年~1725年)の『曽根崎心中』など、江戸時代には若い男女の心中劇がはやりましたが、「かなわぬ恋ならばいっそ心中を」というところが、人々の涙を誘ったわけです。

また、突然別れ話を切り出されて逆上し、恋人を殺害してしまうという事件もあとをたちません。これなども、「情」のもっている結合欲求がいかに強いかということを証左する事例でしょう。

以上、「情」がもっている普遍的な性質について考えてきましたが、「情然の海」のなかを揺らいでいる「純粋感情」もまた、上記のような性質を持ち合わせていたと考えられます。

ゆらぎから流れへ


まだ「心」をもたないアメーバが「情然の海」のなかを揺らいでいるとき、この生命体は完全な眠りの状態にあったわけではありません。

アメーバは揺らぎながら、自分自身の揺らぎを感じていたわけですから、少なくとも自分の揺らぎの緩急は感じ取っていたと考えられます。

そうなると、このアメーバのなかには、さまざまな質感の記憶が蓄積されることになります。

「純粋感情」のなかに多様な質感の記憶が蓄積されると、似たような質感はたがいに結びつき(「情」には結合性がありますから)、最終的には一つのテリトリーを形成するようになります。

「類は友を呼ぶ」ということばがあるように、同類のものは自然に集まるようになるわけです。

このあたりの事柄については、色彩を例にして考えてみるとわかりやすいかもしれません。

たとえば、白と黒をイメージしてみましょう。

白と黒の間には、灰色があります。

灰色は無段階に存在していて、白と黒をつないでいます。グラデュエーションというやつですね。

「純粋感情」が受容していた自身の揺らぎの質感も無段階のものであったはずですが、このグラデュエーションを一つの数直線として考えてみると、左の端には白があり、右の端には黒があったはずです。

もちろん、白も黒も灰色も、すべて「自分」です。

すべて「自分」なのですが、あるときは「白」が「快」に感じられるので「白」のところに行ってみると、「あなた」(「遠方」を意味する古語)には「黒」があります。また、あるときは「黒」が「快」に感じられるので「黒」のところに行ってみると、今度はいまの自分とは対極の場所に「白」があります。

「白」と「黒」は無段階の灰色でつながっているため、アメーバは両極の間を自由に移動するようになり、「揺らぎ」はやがて、「泳ぎ」に進化するようになったと考えられます。

「情然の海」のなかに白と黒の極性が生まれたため、「揺らぎ」のなかから「泳ぎ」が生まれてきたわけです(揺らぎも揺らぎのまま存在し続けます)。

もちろん、ここでいう「泳ぎ」は一つのたとえですから、これを普遍的なことばに置き換えると、「流れ」ということになります。

「揺らぎ」のなかには「偶然」しかなかったのですが、そこから「流れ」が生まれたのは、じつは「必然」でした。

「偶然」と「必然」は相互補完的な概念ですから、どちらかしか存在しないということはありません。原初の世界においても、やはり事情は同じだったと考えられます。

サイコロが転がるときと同じように、この姿のないアメーバも、必然によって担保された偶然の世界を揺らいでいたのです。

以上のわたしの話を念頭において『情然の哲学』(とりわけ第3章の前半部分)を読んでみると、この哲学の奥の深さがより明快に理解できるようになるかもしれません。

情然の場にあらわれた陽陰の極性


今回の話をまとめておきましょう。

わたしたちが日ごろ当たり前のように思っていることも、その成立の根拠について考えてみると、途端にわからなくなってしまう事柄があります。

たとえば、磁石のN極とS極は引き合います。また、正しい配線の回路に電池をセットすると、その回路には電流が発生し、豆電球が点灯したりします。

これらの例は、小学校で行う理科の実験でお馴染みのものです。

ところが、小学校の理科の授業で、「そもそもプラスとマイナスはなぜ引き合うのだろうか」という問題が立てられたとすると、生徒はもちろん、教師ですら答えることができません。教師どころか、物理学の専門家ですら答えることができないでしょう。

なぜかというと、物理学の世界のなかに「なぜ」を問う発想がないからです。
ところが、「情然の哲学」の見地に立つと、このような問題にも答えが出せるようになります(正解かどうかは別として、少なくとも答案が書けるようになるということです)。 たとえば次のように。

「先生、その問題、僕にはわかります。プラスとマイナスはなぜ引き合うのか。それは、世界の根源が情然だからです。情には受容性や指向性や結合性があるので、プラスとマイナスは必然的に引き合うのです」

こんな小学生はもちろん実在しませんが、わたしがもしも数十年前の世界にタイムトラベルすることができれば、そのように答えることでしょう。もっとも、「プラスとマイナスはなぜ引き合うのか」などという哲学的な問題を小学校の教師が話題にすることはありませんが。

わたしは今し方、白と黒のたとえを使ってアメーバの成長について語りましたが、これは要するに、東洋哲学で昔から語り継がれてきた、世界の根源としての「陽と陰」の話と同じです。

ただし、これまでの哲学は、「陽陰」の発生の原因までは解き明かしていないので、「情然の哲学」の登場は、今後、人類の思想史に起こった大きな事件として扱われるようになるかもしれません。

「情然の場」に「陽」と「陰」の極性が発生したことは、わたしたちにとって、「どこか遠い世界の出来事」ではありません。

陽と陰の分極現象は、いまでも実際にこの世界の原理として機能しているからです。

たとえば、分子の世界においては、プラスイオンとマイナスイオンのやりとりがあるし、植物の世界においては、おしべとめしべのやりとりがあります。動物においてはオスとメス、人間においては男と女のやりとりがありますね。「男と女のやりとり」がなければ人類は存続できませんから、「陽と陰が分極したうえで相互作用をする」という現象は、この世界の一つの原理であると考えてよいでしょう。

先にも述べたように、「あなた」という古語は「遠方」を意味することばです。

広く知られている一編の詩を紹介しましょう。

山のあなたの空遠く
幸い住むとひとのいう
ああ、われひとと尋(と)めゆきて
涙さしぐみかえり来(き)ぬ
山のあなたになおとおく
幸い住むとひとのいう
(上田敏 訳 出典は「海潮音」)

これは、カール・ブッセ(1872年~1918年)の有名な詩の一節ですが、「陽」にとっては「陰」が「あなた」であり、「陰」にとっては「陽」が「あなた」になります。

もしかすると、妻が夫のことを「あなた」と呼ぶのも、このようなことがらが背景にあるのかもしれません。

18回


では、「情然の海」のなかを泳いでいるアメーバの話を続けましょう。

親子軸と男女軸の発生


陽陰の極性を帯びるようになったこの姿のない生命体は、揺らぎのなかにいるだけでなく、流れのなかにもいることができるようになりました。

自身のなかに陽陰の相対性が生まれたことで、「陽」である自分と「陰」である自分が、「こちらとあちら」という関係軸を生み出すことになったのです。

自分のなかに「陽の自分」と「陰の自分」があらわれることで、このアメーバは、自分のなかにもうひとりの自分を感じ取るようになり、「ここにいる自分」から「あちらにいる自分」へと移動することができるようになりました。これがおそらく、この生命体の「流れ」の正体ではないかと思います。

世界に自分しかいなければ、「ここに自分がいる」という意識も生まれませんが、自分のなかからもうひとりの自分が分化したことで、無意識の世界に生きていたこの生命体にも、原初の意識が芽生えるようになったのです。

ここにいる自分を「わたし」とすれば、あちらにいる自分は「あなた」になります。「わたし」のなかに「あなた」が生まれることによって、その一人称と二人称の関係性のなかから、自己意識というものが生まれ出たのではないかと考えられます。

陽と陰の関係は、お互いがお互いを支え合う関係ですから、陽が陰を生み出したとも言えるし、陰が陽を生み出したともいえます(どちらにしても同じことです)。とするなら、「わたし」と「あなた」の関係には、「生んだものと生まれたもの」の関係が隠れていることになります。

そしてこれは、人間の世界で言うと、親子の関係ということになります(親も子供との関係がなければ親でいることができないので、親を親たらしめているのは子供だといえます)。そのため、この関係性のことを、わたしたちは今後、親子軸と呼ぶことにしましょう。

そしてまた、この親子軸の発生と同時に、もう一つの軸があらわれるようになりました。

それがすなわち、男女軸というものです。

陽と陰の関係における「わたしとあなた」は、人間の世界で言うなら、夫婦の関係に相当します。夫婦の関係とは男女の関係ですから、わたしはこれを、男女軸と呼んでいるのです。

では、親子軸と男女軸は、お互いにどのような関係にあるのでしょうか。

それは、縦軸と横軸の関係ということになります。

縦と横は、相互補完的な概念であり、縦がなければ横もないし、横がなければ縦もありません。ですから、この二つの軸は二つで一つと言うべきであり、分離できるものではありません。これはちょうど、「母」という概念には「親」という属性と「女」という属性があり、この二つの属性を分離することができないのと同じです。もちろん、父や息子や娘にしても、その属性の構造は同じです。たとえば、「子」(親子軸)+「女」(男女軸)で「娘」になります。

「原初の心」の成長過程


陽陰の極性を帯びた純粋感情のなかに親子軸と男女軸があらわれることによって、前述のとおり、この原初の生き物は自我意識を獲得するようになりました。
これはちょうど、幼児が少しずつ自我意識を獲得するのと同じで、原初の世界においても、情がただ情のままに存在している世界から、一つの「心」が誕生したわけです。

そして、この原初の心もまた人間の心と同じように、悠久なる時の流れのなかで、段階的な成長を遂げていったものと思われます。

心が成長すると、理性も発達します。この点については、誰もが自分の人生において経験していますね。

わたしたちは時間と空間によってこの世界を捉えていますが、原初の心においても、その認識構造は同じでした。親子軸が時間意識を生み、男女軸が空間意識を生んでいたからです。

原初の心がそのときに表象していた時間と空間は、まだ物理的に存在するものではありませんでしたが、このようなイメージの世界がはじめにあったからこそ、ビッグバンという物理現象も起こり得たのではないかとわたしは考えています。
ところで、「原初の心」がどのようなプロセスを経てビッグバンを起こすまでになったかという点については、『情然の哲学』のなかに詳細な説明があります。
そのため、ここではそのプロセスを追いながら、「原初の心」が「神」になるまでの必然的な変化について見ていきましょう。

(『情然の哲学』には「神」という概念は登場しませんが、「原初の心」が「原初格」を確立し、概念的ビッグバンを起こした時点で、わたしはその存在を「天地創造の神」と考えることにしています)。

まずは、プロセスの全体を俯瞰するために、『情然の哲学』の次の部分を読んでみましょう。

① はじめに「情感性・クオリアのゆらぎ(情然の場)」があった。
② 情感性の束が規則性・構造をもった情感となる。そこから徐々に理性が芽生える。原始的な言語の始まり。
③ 情感(自由性)と理性(規定性)が調和的に関係し合うことで「心」が誕生。
④ 心が家族的四位構造を通して自我を自覚することで「原初格」が確立。
⑤ 原初格は「愛」に目覚め、明確な「意志」をもつようになる。
⑥ 愛のエネルギーによって概念的ビッグバンが起こる。宇宙の諸法則が確定。
⑦ 概念的宇宙(イデア界)が拡大。物理的ビッグバンに向けたブループリントができる。
⑧ 物理的ビッグバン。量子宇宙の誕生からインフレーション膨張へ。

(『情然の哲学』p145〜p146)


ここに引用したのは第3章の末尾の部分ですが、ビッグバン以前の不可知の領域をここまで明晰に洞察し分析している点は、驚嘆に値します。

上記の①から⑧までの内容について、「原初の心の成長」という観点から簡単に補足説明しておきましょう。

神学的な立場から見ても、この部分は、「神の誕生と成長」という重要なテーマ(ただしキリスト教の神学にはこのようなテーマはありません)の論究になるため、注意深く仮説を検証する必要があります。

まず、わたしがいちばん大切だと思っていること。

それは、「原初の心」はなぜ「愛」に目覚めたのだろうか、という疑問に対する回答です。

このあたりのところがきちんと説明されていないと、『情然の哲学』も「普通の本」になってしまいます。

そこで、先に引用した箇条書きの部分を改めて読んでみると、➄のところが該当の箇所であることがわかります。「原初格は「愛」に目覚め、明確な「意志」をもつようになる。」とありますから。

ここでいう「原初格」とは、「神」の心のなかに確立された「家族的四位構造」、すなわち「親子軸と男女軸の形成」と考えてよいでしょう。

陽陰の極性を帯びるようになった純粋感情のなかに親子軸と男女軸があらわれたとき、そこに自我意識をもつ「原初の心」が形成されたとわたしは考えていますが、その「原初の心」がなぜ「愛」に目覚めたのかというところが、とても大切な問題なのです。

『情然の哲学』はこの問題に対し、次のような説明をしています。

家族的四位構造の各位は、それぞれ情的な力によって結びついている。方向性をもたなかった情感が、理性の働きにより「向かうべき対象」を見出し、それによって安定的な構造をもつ「人格(原初格)」が確立したということができる。
「対象に向かう情的な流れ(力)」を、より端的な言葉でいえば、それはまさしく「愛」にほかならない。この愛の力こそ、エントロピー増大の法則に逆らって秩序をもたらす原動力となるものである。ここでいう愛と一般的に流通している愛とは、必ずしも同義ではない。これは情感と理性が融合した「方向性をもつ力(ベクトル)」のことであり、あらゆる力の源流となるものでもある。
力の究極的な根源は情然の場にあるが、それはベクトルをもたない可能性としての潜在的な力であり、いわば「発現していない力」である。それに対して愛の力は「現れた力」である。物理学の最前線において多くの天才たちが「四つの力」の根源に迫ろうと日々研究を重ねているが、最終的にそれは「愛の力」として統一されることになるだろう。
愛は単なる盲目的な情動ではない。無秩序な欲望の発露でもない。情感(情感性・自由性・偶然性)と理性(規定性・法則性・数理性・必然性)が調和的に融合しながら対象に向かう情の流れを情然の哲学では「愛」と定義する。
自由な状態にある情感に、流れるべき方向性を示し規定するのが理性だ。情感と理性から成る「愛」は構造的には「心」と同じになる。「心」がある対象(理想)に向かって流れ、強いエネルギー(ベクトル)となった状態を「愛」ということもできるだろう。より一般的な言葉でいえば「愛」とは、何かに「心」が惹き付けられることである。(『情然の哲学』p137〜p139)

世の中には星の数ほど書物がありますが、「愛」についてこれほど明確な定義をしている書物を、わたしはほかに知りません。

わたしたち日本人がキリスト教についていまひとつ同感できないできたのは、おそらく、「なぜ神は愛なのか」という部分が根本的に疑問だったからではないでしょうか。

キリスト教の世界に丸ごと入ってしまえば、「神は愛なり、アーメン」ということになりますが、教会から一歩外に出た途端、そこには、とても神がいるとは思えない過酷な現世が存在しています。そして、わたしたちの人生には「今ここにある現世」しか与えられていないわけですから、牧師さんの高邁な話をいくら聞いたとしても、なかなか「神の愛を心から信じる」というところまでいかないのです。

それが証拠に、日本におけるクリスチャン人口は、いまもって総人口の1パーセント未満の水準にとどまっています(そしてこれから爆発的にクリスチャン人口が増えるという見込みもありません)。『宗教年鑑』2019年版によると、伝統的な(新宗教を含めない)キリスト教の信者数は、日本の人口のおよそ0.8%です。

「情然の哲学」は、「神の愛」を理解するのに「信仰」などは要らないと言わんばかりの明晰さで、ビッグバン以前の世界について語っています。わたし自身はこれまで、「神の愛」というものを漠然と信じてきたわけですが、この書物を読んで、やはり聖書の教えは正しかったのだという思いを新たにすることができました。

そしてそれはわたしにとって、とても衝撃的な経験でした。

「原初の心」が愛に目覚めたのだとすれば、神の宇宙創造の根本の動機がわかるようになります。そして、わたしたち人間の幸福の源泉も「愛」にあることがわかるようになります。愛という概念を中心に据えれば、わたしたちはそこから、統一した世界像(グランドセオリー)を紡ぎ出していくことができるのです。
では、以上の話のまとめとして、『情然の哲学』の次の箇所を読んでみましょう。

これまで述べてきたように情然の場において偶然性の中を自由に漂っていた情感性は、心地よさの方向に流れの束を作り情感となり、さらに喜び、幸福を求め、それを持続するために方向性を定めて自らを規定する理性を生み出したのであった。それゆえ情感と理性が融合した愛は、自由であると同時に規定性をも本質要素として内包することになる。人は、愛することによって自由なる主体制を確立し、同時にその愛の喜びは対象に拘束されるのだ。(『情然の哲学』p140)

以上の内容が、「原初の心」の成長過程となります。

「神の成長」と「人間の成長」は相似形になっているため、『情然の哲学』の第3章の内容は、きちんと読むとそれほど難解なものではなく、「言われてみればそのとおり」という話になっていますね。

本講座の今後の予定


今回の講座は、『情然の哲学』第3章の後半の内容をわたしなりの視点から解説し、論評したものです。「情然」という新しい概念について説明したこの章は、この書物においてとくに重要な部分となっているため、本講座においてもいくつかの回にまたがって解説してきました。

意識とは何か、概念とは何か、言語とは何か、クオリアとは何か、心とは何か、人間がもっている創造性とは何か、といった、人間学にとって基本的かつ中核的な問題群が、この書物のなかで理路整然と解説されている点に注目しましょう。
「情然の哲学」は、歴史的に構築されてきた科学・哲学・神学のそれぞれのパラダイムの外側に位置することで、世界の根源(アルケー)の問題にこれまでにない視点からアプローチしています。

第3章ではアルケーの問題の解明に力点がおかれていますが、第4章以降では、「神の心」(原初格=家族的四位構造)とこの世界との類縁関係(相似関係)について解き明かされることになります。とても興味深い内容ですが、この哲学の最も重要な部分(第3章)についてはすでに解説が終わっているため、今後は章単位で解説をすることにしたいと思います。

具体的には、以下の通りです。

第19回 『情然の哲学』第4章についての解説と論評
第20回 『情然の哲学』第5章についての解説と論評
第21回 『情然の哲学』第6章についての解説と論評
第22回 『情然の哲学』第7章についての解説と論評

『情然の哲学』についての解説はあと四回ほど行う予定ですが、そのあとは再び『人間学とは何か』に戻り、そこで扱われている内容をわたしなりの視点から論評することになります。

19回


今回は、前回の講座で予告したとおり『情然の哲学』第4章の内容を解説します。

第4章のタイトルは、「愛と自由と生命と理想」というもの。

愛、自由、生命、理想ということばは、いずれも抽象的な概念でありながら、わたしたち人間にとってとても大切なものです。

そのため、愛についても、自由についても、生命についても、また理想についても、これまで多くの人によってさまざまなことが語られてきました。

ところが、これら四つの概念の相互関係について明瞭に解き明かした哲学というものは、意外にも見当たらないのです。

愛についての定義からはじまり、自由、生命、理想というものが、その「愛」との関係においてどのような意味をもつのか、という点について、『情然の哲学』は明快な論議を展開しているので、今回はそのあたりの問題について掘り下げてみることにしましょう。

「情然」から生まれた「愛」


情然ということばはわたしたちの造語ですから、当然のことながら、今のところほとんど知名度がありません。それに対して、愛ということばを知らない人はいないわけですから、知名度という点でこの二つを比べてみるなら、雲泥の差があることになります。

ところが、わたしたちの見解によれば、「愛」の理解のためには「情然」の概念がどうしても必要なのです。

愛という概念だけを見つめていても「愛」の正体はつかめないのですが、情然という概念を入り口にして愛について考えてみると、驚くほど明快な愛の定義ができるようになります。

情然と愛の関係については、すでに『情然の哲学』が明晰な論議を展開しているので、まずそこのところを読んでみることにしましょう。

情然の場は、偶然性が支配する世界であり、そこには目的や理想に向かうベクトルはない。偶然何らかの構造が見られても、それを維持する力はなくすぐに混沌の闇へと戻ってしまう。偶然性とは無秩序化への圧力でもあり、それはつまりエントロピー増大の法則そのものだ。情然の場のエネルギーこそ、まさにエントロピー増大の力でもあるのだ。
それは宇宙始源の状態のみならず、星と星との間の空間、プランク領域内のミクロ空間など、宇宙全体に広がっている真空エネルギーの場でもある。当然、空気や水や鉱物の中にも、動植物の中にも、そしてもちろん私たちの体の中にも情然の場があり偶然のゆらぎを続けている。「第3章 存在の構造」で詳述したように、情感も理性も心も概念も根源的には情然の場のゆらぎ、クオリアが凝固したものである。概念的ビッグバンを経て物理的ビッグバンが起こり、そこで光や原子、天体、そして人間やすべての生命が生じる原動力となり、またその原材料となったのもやはり情然である。ゆえに存在はすべて存在のエネルギー・エントロピー増大の法則の影響を受けることになる。
しかしそのエントロピー増大に抗する愛の力があるがゆえに、宇宙は混沌に戻らずに秩序を維持できている。愛の力はベクトルを持ち、対象との間で関係性(秩序)を維持しようと作用する。目的や理想 ―より幸福な状態― に向かおうとする発展的推進力がある。愛は宇宙に必然性をもたらし、それによって宇宙は混沌から秩序へと向かうことができたのだ。
第3章の「愛の始まり・自由と規定性」では、愛の力が「現れた力」であるのに対して、情然の力は「現れていない」潜在的なエネルギーの場であると述べた。しかし、愛の力によって秩序が生まれ宇宙が構成されようとする段階では、常に混沌へといざなおうとする力として相対的に発現しているということもできる。それは動こうとすることで初めて抵抗力を感じる(発現する)のと似ている。愛の力と情然の力(エントロピー増大の力)は、まさに表裏一体であり、局所的には対立関係のように見られることがあっても、より大きな流れや本質的なレベルにおいては相補関係にあるのだ。もともと愛の力そのものが情然の場から生み出されたのだから、それは当然のことでもある。すべては一なる情然の場から生じたという観点に立てば、宇宙全体、全存在において本質的に対立するものは一つもない、ということになる。
情然の場は、規定性のない自由の場でもある。情然が愛を目指して発展してきたように、自由の目的も愛の実現のためにあるのだ。偶然性の支配する情然の場が心地よさを求めて自ら規定性を生み出したように、自由は真実の愛に拘束されることを欲しているということもできる。(『情然の哲学』p167-169)

ここで語られている愛とは、より具体的には「原初格」において発現した愛のことですが、原初格ということばも造語であり、ほとんど知られていない概念であるため、ここではさしあたり「神の愛」と考えてもらって差し支えありません。
わたしたち人間と同じように、「神」もまた、愛と自由と生命と理想によって自らの存在を成立せしめていると考えるわけです。

ここで留意しておきたいのは、「情然の場」から愛が生まれたからといって、「情然」がすべて「愛」におきかわってしまったわけではないということです。
「情然」とは、この世界のあらゆる存在に先立って存在していた「情のゆらぎの場」のことですから、このなかから「愛」が生まれ「神」が生まれ(両者は存在論的に同義のものだと考えられます)その「神」から世界が創造されたとしても、もともとあった「情然」がそのためになくなってしまうわけではないのです。

物理的な側面から見た場合、「情然」はいまでもエントロピー増大の法則として存在しているので、わたしたちは、初めから最後までずっと情然の世界のなかにいることになります。

ここでは深く立ち入ることはしませんが、情然と愛の関係がわかると、「偶然と必然」の問題もすんなりと理解できるようになります。わたしたちは常に、偶然と必然の事象が複雑に連鎖する時空間のなかに生きていますが、なぜそうなっているのかという根本的な問題に対しても、一つの合理的な解釈の道が与えられるわけです。

『情然の哲学』では、「偶然と必然」の問題のほかにも、「ゆらぎと流れ」、「クオリアと概念」、「情感性と理性」などのことがらが重要なテーマとしてあつかわれています。

これらは一見すると多様な問題群のように思われますが、実はそうではありません。

偶然から必然が生まれ、ゆらぎから流れが生まれ、クオリアから概念が生まれ、情感性から理性が生まれた、と考えてみると、やはりおおもとにあったのは情然だった、ということがあらためて合点できます。

そして、これら「生んだものと生まれたもの」が相互補完的な関係を形成することによって、この世界は一つのまとまりのある「実体」として出現することが可能になったわけです。

実際、この地球上に生存しているいきものたちを観察しても、そこには驚くべき多様性がありながら、全体として一つの生態系を形成しています。自然界において「生物多様性」はこれまで一度として破綻したことがなく、わたしたちの星はすでに、46億年もの生命を維持しているのです。

宇宙のはじまりを「偶然」とする思想も今なお健在ですが、単なる偶然からこうした「多様性のまとまり」が数十億年にもわたって維持されているとは、わたしにはとうてい思えません。

この宇宙が偶然によって出現したのであれば、偶然によって消滅してしまってもいいはずですが、たとえば、「最近太陽が偶然にも小さくなり消滅の方向に向かっているので、わたしたち人類もまもなく消滅することになります」などという事態は、誰も願っていませんね。

愛と自由、愛と生命、愛と理想


次に、愛と自由、愛と生命、愛と理想の関係について整理しておきましょう。

まず、愛と自由の関係ですが、「自由がなければ愛は成立しない」というのは自明のことで、愛する側も愛される側も、ともに自由意志を前提としなければ愛の関係を結ぶことができません。

現行の憲法のなかにも自由権というものがあり、表現の自由や職業選択の自由など、わたしたち国民にはさまざまな自由が保障されています。自由権は基本的人権を構成する一つの重要な権利であり(ほかには社会権や平等権などがあります)、いかなる権力によっても剥奪されることはありません。

そのため、人が誰かを不当に拘束した場合、それは人権侵害の罪に問われることになるわけですね。

ここで、わたしが第17回の講座のなかで提起した「情がもっている普遍的な性質」を再度確認してみましょう。

それは、自発性、受容性、指向性、結合性という四つの性質でした。

「純粋感情」(これはわたしの造語です)のなかに上記の四つの性質があったため、有と無の未分化の世界のなかにいた「姿のないアメーバ」は陽陰の極性をもつことになり、そこから理性が生まれ、自我意識が生まれ、愛が生まれた(愛に目覚めた)、というのがわたしの理解です。

わたしたちの心は今でも情然の状態を基礎としており、情然とは「情」が自由に動くことのできる場のことですから、この点から考えてみても、愛と自由は一体不可分の関係にあることになります。

次に、愛と生命の関係ですが、大枠で考えた場合、こちらも一体不可分のものであるとわたしは捉えています。

『情然の哲学』においても「生命」について瞠目すべき定義が下されているので、以下に引用しておきましょう。

愛によって強く結びついた「我」と「汝」が時空的構造の中で再認識され、もはや壊れることのない四位構造をもった「自我(原初格)」が確立されたのであった。それは概念上の時空的存在の始まりでもある。それはまた「生命」の始まりでもある。
「生命」とは、愛のベクトルによって成立する「存在そのもの」のこと。すべて存在は「個」ではなく関係性として「ある」ということは繰り返し述べてきた。その原則は、存在と存在との関係はもちろん、存在の内部においても変わらない。すべての存在は時空(縦軸×横軸)的に展開された四位構造によって成立している。その関係性を結び付けているのが愛である。ようするに構造として静的に把握された「存在」を、力やエネルギーとして見ればそれは「愛」であるということになる。物質とエネルギーが等価であるというのと同じような相関関係にある。
もちろん、ここでいう「生命」は一般的に生物学的に把握されるものとは同じではない。情然の哲学に基づいて定義される概念である。生物学的に誕生するずっと以前から「生命」はあり、また生物学的に死と判断された後も「生命」の本質は継続する。愛によって結びついた四位構造が「生命」の核であるとするならば、それは「存在」そのものであり、究極的には素粒子一個であっても「生命」として存在しているのだ。動いている(振動している・ゆらいでいる)ものは「生命」であるという観点からも、同じ結論になる。
それは「生も死も空である」という仏教の考えに近い。一般にイメージされる死は、存在様相の変化であり非存在になったわけではない。それは一時的なカオスへの回帰であり、次の生のステージに向けた始まりでもある。「ある」のは「生」だけで、「死」は「無」と同じように存在できない。たとえ生物学的な死が訪れても、そこに愛がある限り「生命(の核)」は続いていく。(『情然の哲学』p180-181)

唯物論的な発想によれば、生命の誕生は地球が誕生してからおよそ10億年後のことになります。生命体、すなわち実体としての生命の誕生はたしかにそうなのかもしれませんが、個々の生命体にいのちを与えたおおもとの「生命」の誕生は、宇宙の始源のときにまで遡りうると「情然の哲学」では考えるわけです。

このあたりは哲学として非常にすぐれた洞察であるとわたしは思うし、また、そのように考えてみると生命の起源の謎もすっきりと理解できるようになるので、不思議です。

最後に、「愛と理想」の関係について確認しておきましょう。

理想とは何かという問題について考えてみると、とたんにどう考えていいかわからなくなります。

もちろん、辞書を引けば「理想」の意味はわかりますが、「原初の心」においてどうして理想が生まれたのか、という問題については、おそらくこれまで誰も考えてきませんでした。

常識的には、理想とは、まだよく世間を知らない若者たちがもつもの、といったニュアンスがありますね。

理想は現実の対義語であり、大人になって現実の世の中を知れば自然に消えていくものだ、という否定的なニュアンスです。

ところが、『情然の哲学』には「理想」に対する原理的な定義が存在します。そもそも理想とは何なのか、という問題に対する回答です。

次の箇所を読んでみましょう。

引力と斥力のほか、愛にはもう一つ重要な要素がある。それは、より高いステージに向かおうとする理想にほかならない。どんなに深く愛し合っても、ただ二者が向き合うだけであれば発展性がなく、愛も次第に収縮していってしまうだろう。たとえば恋人同士であれば、お互いにより高め合う中でそれぞれが人格的に成長し、より深い愛を築こうとするようになる。一対の愛し合う男女はいずれ夫婦となることを目指し、結婚によって家族の核を構成する。やがてそこに新たな生命が生まれ父母となり、そして祖父母となっていく。二人から始まる愛は、男女の愛から、親の愛、そして人類愛へと広がり発展していく。
親子の愛でも、男女の愛でも、兄弟姉妹の愛でも、友愛であっても、愛はそれ自体の性質として常に理想を目指すようになっている。もし、ただ向き合うだけで理想が失われた関係であれば、もはや愛とはいえない。疑ってかかった方がいいだろう。愛は理想を共有し合うことで成立する。愛し合っているということは、即ち共に理想に向かっているということでもあり、それによって愛が維持され、発展するのである。
愛は相対関係の中を行き交う方向性を持った情の流れでありつつ、その愛によって結ばれた関係それ自体も同じように対象 ― つまり理想に向かうベクトルをもつようになる。そうして愛は、さまざまなステージにおいて常に理想に向かい、無限に展開していくことになる。理想とは「いまここでないどこか」にある世界や状況を指し示すビジョンのようなものではあるが、理想そのものは漠然とではあっても「いまここにある心の中」に描かれている。理想に向かうことは、それ自体すでに理想に包まれて理想の中にいるようなものかもしれない。理想に生きる人は、現状がつらくても勇気や希望を持つことができるのは、それゆえである。(『情然の哲学』p178-179)

わたしたちは日頃、「こうありたい」という状態をイメージしながら物事を処理しています。

何事においても理想の状態(平たく言うと望ましい状態)を強く思い描けば、その分だけモチベーションも上がりますね。

愛というものはそもそも、望ましい状態を志向する前向きな心の姿勢です。

愛とは逆の感情に、「憎悪」や「怨恨」がありますが、これらのネガティブな感情から「破壊」が引き起こされることはあっても、「建設」が生まれることはありません。

これらの思いのなかには、「理想」がないからです。

したがって、このような常識から考えてみても、「理想」の母体はやはり「愛」だといえるでしょう。

「愛と生命と理想は三位一体である」という「情然の哲学」の見解は、十分に妥当なものであるとわたしは思います。

進化した人権思想


今回の話を簡単にまとめておきましょう。

人間学的な観点から『情然の哲学』を読んでみると、この哲学は「進化した人権思想」ともいうべき側面をもっていることがわかります。

「情然の哲学」は、世界の根源(情然)から愛が生まれ、その「愛」と同時に「生命」と「理想」が生まれたという思想ですから。

この思想を価値論の観点から見てみると、「一人ひとりの人間の価値は宇宙全体の価値に等しい」ということになります。

おそらくこれは、かつてないほど壮大な広さと深さをもったヒューマニズム思想だといえるでしょう。

こうして、新しい次元から人権思想の基礎付けを試みた「情然の哲学」は、混迷を極める現代社会に新たな希望を与えるものとなっています。

わたしが数年前からこの哲学に注目しているのは、そのためです。

今回の話は、これくらいにしておきましょう。

次回は、『情然の哲学』第5章の内容について話します。

20回


今回は、『情然の哲学』第5章を解説しましょう。

章のタイトルは、「概念から物質そして人間へ」というものですが、全部で14の小見出しがあり、サブタイトルは、「三次にわたるビッグバン」というもの。

この章も斬新な発想に富んだスリリングな展開となっており、人間学の研究にとっても見過ごせない内容になっています。

ただ、そこに語られているトピックスを逐次解説するとかなりの分量になってしまいますから、ここでは、わたしがこの章を読んでとくに印象に残ったことがらについて話してみることにしましょう。

「愛」と「物質」の意外な関係


『情然の哲学』は、存在論の根本問題についてこれまでになかった視点から切り込んでいる書物ですが、なかでも、「愛」と「物質」の関係についての見解は注目に値します。

わたしたちの常識からすると、愛は愛であり、物質は物質です。どちらも人間にとって重要なものであることは言うまでもありませんが、この二つを強引に結びつけようとすると、どこかしら(悪い意味での)スピリチュアルな匂いのする話になってしまいます。

わたしが思うに、『情然の哲学』の魅力のひとつは、この書物が大型書店の「精神世界」の棚にカテゴライズされないものである点にあります。

この書物の著者は現代科学の知見を十分に踏まえつつ、愛と物質の関係についての論理を「論理的」に展開しているため、「哲学臭」(小難しい理屈を延々と語るような書物がこれに該当します)も「宗教臭」(何かあるものを無条件に神聖なものとする書物がこれに該当します)も感じさせないものになっているのです。もちろん、この書物には文章を過度に飾り立てるような「文学臭」もありません。

「ちょっと臭いけどなかなかの本だよね」という書物は世の中にたくさんありますが、『情然の哲学』にはそのような瑕疵はなく、それどころか、たとえば森鷗外の晩年の作品にみられるような香気すら感じられます。

ですからこの書物には、読者の側からすると、話の論理を追う楽しみと、文章を読む楽しみ(整理整頓されたことばの配列に心地よく身をゆだねる楽しみ)があるわけです。

では、「愛」とは何であり、また「物質」とは何なのでしょうか。

『情然の哲学』第5章の論理を追いながら、この問題について一緒に考えていきましょう。

まずは、次の箇所を読んでみてください。

宇宙は情然のゆらぎから生じたクオリアと、それが凝固した情感、そしてそこから生まれ、ゆらぎにベクトルを与え規定する働きを持つようになった理性との相互作用によって成り立っている。(「第3章 存在の構造」参照)そしてその宇宙を支える根源的な力は情然のエネルギー場がベクトルをもった「愛」であった。さらにその方向性を決めているのは、愛が本来的に志向する理想である。第4章の「愛は理想に向かう力」で述べたように、愛は常に理想を内包している。理想のない愛はない。愛の理想とは何か。それは、なぜ物質世界が必要だったのかという問いと同じ答えになる。(『情然の哲学』p199〜p200)

この短い一節を読むだけでも、読者のみなさまは、「愛」と「物質」の関係について正しく認識することができるのではないでしょうか。

わたしのこの講座でもこれまで述べてきたように、「愛」は、「情然」から生まれた知情意をともなう自発的な心の状態です。これが「原初格」において発現したため、原初格(この概念が難解であればさしあたり「神」と置き換えてよいでしょう)は物理法則によって維持される世界、すなわち物質世界を必要としたのです。もちろん、ご自身が思い描いた愛の理想を実体世界として外在化するためです。

というのは、「原初格」のなかには「概念としての愛」しかないため、それ自身においては本当の意味での愛のよろこびを体験することができないからです。

「神」がいくら愛の気持ちを抱いていても、自分ひとりしかいないのであれば、「自分が自分を愛する」という状態しかつくり出すことができません。しかし本来、愛とは他者との関係があってはじめて成り立つものですから、神はどうしても、子供を産んで子供を愛する(その子供はもちろん神とは別個の自由意志をもった存在です)という状態をつくり出したかったわけです。

いうまでもなく、ここでいう「子供」とはわたしたち人間のことです。

ここに、わたしたち人間が心(非物質的なもの)と体(物質的なもの)の二重構造になっている理由があるといえます。

また、わたしたちが肉身をまとい、生まれてから死ぬまでこの物質世界に生存する理由もここにあるといえます。

さらに言うなら、人間がおのおの唯一無二の個性をもった「個」として存在する理由もここにあるといえます。

この世界は、偶然いまあるようなかたちになったというよりも、「原初格」のかたちどおりにつくられたものではないかとわたしたちは考えているわけです。

この点については、やはり聖書の次の聖句が参考になるでしょう。

神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された。(創世記 1章 26~27節)

では、次の考察に進みましょう。

「愛」と「存在」は同じもの


『情然の哲学』第5章の後半は、「家族的四位構造」に関するものです。
わたしが先に引用した聖句では、「神のかたち=男女(夫婦)」ということでしたが、「情然の哲学」ではその思想をさらに一歩進めて、「神のかたち=家族的四位構造」ととらえています。
ここでいう「四位」とは四つの位置のことで、それはすなわち、「親・子・男・女」の各位を意味しています。
このあたりのところは存在論のみならず、人間の存在に直接関わる重要な視点となるため、『情然の哲学』の次の箇所をおさえておきましょう。

これまで述べてきたように「存在」はすべて関係性の中にある。あらゆるものから完全に独立した「個」は存在できない。人間はもちろん一個の素粒子でさえ、その原則は変わらない。物質の最小単位とされるクォークは現在六個見つかっているが、そのどれも単独で取り出すことはできない。必ず他のクォークとの関係性の中でしか捉えられない。
その関係性の原型として確立されたのは、時間軸上に展開された「因果(親子)」と、空間軸上に展開された「陽陰(男女・夫婦)」が交差する「家族的四位構造」であった。(「第3章 存在の原型としての四位構造」)ここで「家族的」という言葉を使うことには、どことなく非科学的なニュアンスが感じられ抵抗を覚える人もいるかもしれない。しかし、この四位を結ぶのは方向性をもった情感性の力(情の流れ)であり即ち愛の力である。それゆえ「因果・陽陰」という無機的な言葉よりも、あえて「親子・男女」という有機的関係性としての意味をもった言葉で表現していると考えていただきたい。
存在は、それが概念世界であれ物質世界であれ、なんらかの時空的関係性の中に凝固されたものである。時空的関係性とは、存在そのものの内部構造として、時間と空間の差異、広がりがあるということだ。その時空的広がりを端的な言葉で表現すると「家族」になる。もちろん必ずしも一つの物質の中に実際の家族関係があるという意味ではないが、しかし構造的には相似形にあるということだ。
(『情然の哲学』p208〜p209)

そして、『情然の哲学』はこのあとハニカム構造の話に移ります。
ハニカム構造とは、六角形の、ちょうど蜂の巣のようなかたちをとる構造のことですが、この構造は一般に、最も大きな強度を維持できるものとされています。
家族的四位構造は、そのなかに実はこのハニカム構造が隠れているというのが「情然の哲学」の見解です。
なぜかというと、家族はやがて氏族を形成し、家長の家(本家や実家と呼ばれるもの)においては通常、祖父母を含めた三世代が共に暮らす家庭になっているからです。
このあたりのことについては、『情然の哲学』の次の箇所が参考になります。

三世代家族が配置されたハニカム構造は家族的四位構造をより詳細に見たものであって、基本的には同じものである。それは原初格の構造であり、私たち一人ひとりの人格から、人類・宇宙全体、そして一個の素粒子内にも見られる存在の基本的な原型でもある。存在は、部分も全体もすべてこの基本構造を元に展開しているため、個と全体が共鳴関係にあるフラクタル構造をもつホロン的存在となる。(『情然の哲学』p214)

「情然の哲学」における存在論の問題は、わたしが思うに、この箇所が結論となります。

結局、第3章からはじまる存在論の論議は、この第5章において明確な結論に到達することができたわけです。

それにしても、この書物に見られる論理の骨組みは見事なものです。一つ一つの小見出し(意味段落)が有機的につながりあい、必要に応じて具体例を交えながら、「存在」に先立つものとしての(そして「存在」を「存在」たらしめるものとしての)関係性のあり方をものの見事に描破しています。

そして、その関係性の基本単位となっているのはわたしたち人間の存在基盤である「家族的四位構造」だというのですから、驚きです。

これは言うならば、「ねずみの嫁入り」のような話で、存在論の真理を求めて果てしなく遠い旅に出ていたつもりが、結局、「答えは自分のいちばん身近なところにあった」というわけです。

最近は三世代家族というものが少なくなっていますが、わたしたち人間は本来的に、祖父母、父母、子供、という三世代構成の家庭のなかで十分な愛のやりとりをすることができる存在だというわけです。

わかりやすい例で言うと、サザエさんやちびまる子ちゃんのような家族ですね。

だとすれば、少なくとも根源的な次元においては、「愛」と「存在」は同じものであったと考えることができ、現代の科学的探求が「情然の哲学」を媒介として、「神は愛なり」というキリスト教の本質にまでつながり得ることになるわけです。

物質世界の謎を解く鍵


『情然の哲学』ではこのあと、「愛」と「力」についてのユニークな考察に入ります。

小見出しのタイトルは、家族的四位構造の愛と「四つの力」の相関関係、というもの。

家族的四位構造の愛という概念も、悠久なる哲学の歴史のなかで初めて出てきたものですが(そもそも西洋の哲学には「家族」を視点に置いた思想がほとんどありません)、この概念は、単に形而上のものではなく物理的な「四つの力」と相関関係にある、というわけです。

ここに出てきた「四つの力」については、高校の物理の教科書で簡単におさらいしておくとよいでしょう。

自然界には、4つの基本的な力が存在する。それらは、強い力、電磁気力、弱い力と重力である。一方、空気の抵抗力や摩擦力などは分子の衝突や分子間の静電気力によって説明できるので基本的な力とは考えない。
(東京書籍版『改訂物理』p438)

わたしたちが暮らしているこの自然界は四つの力によって成立していますが、「家族的四位構造の愛」という視点からこの世界を眺めてみると、「四つの力」はそれぞれ次のように読み解くことができます。

1. 強い力は、夫婦のあいだに働く愛の力(男女愛・夫婦愛)。
2. 電磁気力は、父母と子供たちのあいだに働く愛の力(父母愛・子女愛)。
3. 弱い力は、兄弟姉妹や友人たちのあいだに働く愛の力(兄弟愛・友愛)。
4. 重力は、人と人とのあいだに働く愛の力(隣人愛・人類愛)。

このような観点から世界について考えてみると、「愛」と「存在」の本質的同源性についての理解がより深まってきますね。

もしかすると、わたしたち人類が所与の前提としているこの自然界そのものが、実は「神のかたち」なのかもしれません。

とするなら、「情然の哲学」は「愛の哲学」と呼んでもよいことになります。

なお、「愛の力」と「物理の力」の相関関係については『情然の哲学』のなかに詳しい説明がありますので(p216~p218)、ご興味のある方はそちらをお読みください。

愛と物質の関係についてのいちおうの結論が出たところで、今回の話はこのあたりにしておきましょう。

次回は、『情然の哲学』の第6章について解説します。